「愛国」の本当の問題:中国を見つめ直す(19)

行き過ぎた愛国行為がなくならないのは、社会的な言動に大きな制約がかけられる中国で、「愛国」こそが批判を受けにくい聖域に持ち上げられているからだと前回書いた。

はき違えた愛国行為は中国だけで起きるわけではない。しかし、中国でこうした行為がひときわ目につくのは、前回取り上げたように、いったんこのような行為が起きた時に、それを阻止する社会の力が絶対的に弱いことだ。この弱さの原因はたんに政府の規制だけでなく、前回取り上げたネット上の批判意見の言葉を使うならば、「愛国という道徳の高みに立って他人をののしる」、人々の精神構造が、「はき違えた愛国」行為を、加担したり沈黙したりすることで助長させていると言うべきであろう。

だとすれば、はき違えた愛国行為をとらえる上で大切なのは、「愛国」の如何にとどまらず、ある価値観を社会全体に服従させることをよしとする精神構造にほかなるまい。こうした精神構造は過去にも存在した。すなわち、現在の「愛国無罪」を、毛沢東の時代に革命のためなら虐殺行為をも許された「革命無罪」と並べた場合、「愛国」、「革命」のためであれば、「敵」に対して何をやってもいい、と考える点で共通していることに気付くはずである。ここで大切なのは「愛国」、「革命」の内容や正しさそのものよりも、特定の価値観を道徳の高みにまで持ち上げて社会全体に強制しようとする人々の精神構造のはずだ。

はき違えた愛国行為を批判し、そうした行為をなくすべく働きかけるとしたら、やはり「愛国」そのものの是非を論じるのではなく、こうした社会一般の心理の民主化、すなわちある価値観がいかに正しく思えようが、少数意見や対立意見を認めていくように働きかけることが大切であろう。ネット上の批判意見のように、それは少数ながら芽としては出ているのであり、どれだけの年数を要するのかはわからないが、それが増えていく先に本当の意味での中国の民主化もあるのではないかと思う。

05年の反日デモ(北京、筆者撮影)
05年の反日デモ(北京、筆者撮影)

ノーベル平和賞を受賞し2017年に逝去した劉暁波が主張した非暴力主義に基づく中国の民主化は、かかる文脈の中に置いて考えなければならない。彼は中国の民主化を実現する上で、その唯一神格化を否定し、次のように述べている。

「現代の民主制は、様々な政治勢力が非暴力で平和的にお互いに妥協する政治制度である。民主的な政治の最大のメリットの一つは、社会的な衝突を解決する方式を制度化したことであり、これにより暴力性を取り除くことができた。憎悪は暴力を導きやすく、その心性は民主化の障害となり、同時に独裁政治に最適の土壌を作りだす。憎悪によって激化した行動では、一つの独裁がもう一つの独裁に代わるだけであり、しかも悪循環に陥りやすい。(中略)中国の民主化は『仇敵意識』を取り除くことが前提とされねばならない。何故なら、民主的な政体の中には敵はいなく、ただ異なる利益集団のチェック・アンド・バランスがあるだけだからである」(一九八九年五月七日「我々の要求 学内の自由フォーラム」16)。

すなわち民主化もまた道徳の高みに立って有無を言わさず従わせるものであってはならず、「民主化の敵」を特定し、それを血祭りに上げることで実現するようなものではないと言うのである。ここで彼が言う『仇敵意識』とは、上で挙げた「愛国無罪」、「革命無罪」のような、道徳の高みに立って敵に何をやってもいいと考えるような精神にほかなるまい。

もちろん、彼のこうした発言の矛盾や弱さを指摘することは可能であろう。すなわち少数意見&対立意見を認めていくようなことは、ある程度民主化が実現されなければできないことであり、現実の中国の政治体制に鑑みる限り、革命でも何でも起こして一党独裁体制を打倒しなければ絵に描いた餅にすぎない、といったふうに。しかし、ある価値を道徳の高みに押し上げて周囲を屈服させることは個人の心の持ち方の問題であり、それは中国がいかなる政治体制であっても本質的には国民の意識の変化で克服し得る課題のはずなのだから、民主化に向かうか向かわないか以前に、克服に向かうべき課題なのではないかと筆者は考える.