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「普遍的価値」から中国政府批判をすべきではない(上):中国を見つめなおす(23)

麻生晴一郎ノンフィクション作家

 「普遍的価値」は、外務省のホームページによると、「自由」「民主主義」「基本的人権」「法の支配」「市場経済」から成る。外務省のホームページにも出てくるように、近年の日本政府は、「普遍的価値に基づく価値観外交」(外務省ホームページ)を外交方針に挙げている。中国の民主化や民族問題に関わる活動で「普遍的価値」が語られるのも、こうした趨勢によるものなのだろう。

 しかし、「普遍的価値」が強調されればされるほど、逆に西側世界、とりわけアメリカの価値観に限定され、普遍性を持たぬように感じてしまうのは、おそらくぼく一人ではあるまい。たとえば、民主主義という言葉は、民主集中制、プロレタリア民主主義など、本来はもっと広い意味で用いられたはずだが、「普遍的価値」にもとづき中国やロシアなど強権国家の「非民主的な」ありようが批判される中で、中国の全国人民代表大会が依拠する民主集中制などは顧みられず、民主主義イコール西側諸国の民主主義、もっと率直に言えば民主主義イコール反中国、反ロシアの意味に落ち着きつつある気がしてならない。

 その結果、「普遍的価値イコール西側世界の民主主義」という陣営が出来上がり、他方で「普遍的価値の観点から否定されるべき中国の価値観」という対立構図が生まれる。げんに中国は中国でこの10年間で「社会主義核心価値観」という中国独自の価値観を広め、「普遍的価値」と対立させている。

 「社会主義核心価値観」とは、国家レベルの目標「富強、民主、文明、和諧(親睦)」、社会レベルで重んじる価値「自由、平等、公正、法治」、個人の道徳規範の価値「愛国、敬業、誠信、友善」の計12の概念から成る、中国独自の価値観のことである。「民主」という概念が含まれていることに驚く人がいるかもしれないが、中身は西側世界の言う「民主」とは異なる。「中国指導幹部資料庫」(中国共産党新聞網)の中にある「民主を論じる」(王晨艶著)によると、民主とは、全国人民代表大会などの民主集中制や、儒教の考えに基づく民本(為政者が民のために存在するという考え。為政者が選挙で選ばれることは必ずしも必要ではない)などが中国の国情に見合ったものだとされ、次の一文のように「普遍的価値」の民主主義とはまったく別のものであることがわかる。

民主は西洋の方式だけではないし、西洋方式の民主も米国の方式だけではない。中国式民主は実際、国家の安定と経済の復興などをもたらしてきた。西側の民主の迷信の中で自己の存在を否定する必要があるのだろうか? こうしたことは中国式民主の発言権が脆弱であることを反映しているだけなのだ。(麻生訳)

中国で「普遍的価値」は「普世価値」という。筆者がこの言葉を初めて耳にしたのは、今から17年前に清華大学内のサークル「普世価値研究会」の会合に参加した時(写真)だった(筆者撮影)
中国で「普遍的価値」は「普世価値」という。筆者がこの言葉を初めて耳にしたのは、今から17年前に清華大学内のサークル「普世価値研究会」の会合に参加した時(写真)だった(筆者撮影)

 こうして日本も含めた西側諸国が「普遍的価値」に立ち、一方で中国が「社会主義核心価値観」に立つ、という対立が形成されている。この対立の問題点が何かと言えば、1つは、これが激化して中国政府批判がこの方面ばかりからなされることにより、中国政府が「社会主義核心価値観」を通じて掲げる社会主義や伝統思想の内容の問題点には蓋をしてしまいかねないことだ。

 中国政府は、「普遍的価値」とは異なる「社会主義核心価値観」に立っている以上、「普遍的価値」から発するいかなる批判も受けつけまい。中国政府を批判するのであれば、「社会主義核心価値観」を一笑に付したりはせずに、むしろこの中から批判してみることこそが必要ではないか。たとえば、中国政府が本当に社会主義をやっているのかとか、あるいは、主に儒教思想の影響が強い「社会主義核心価値観」は中国の伝統思想を正しく受容しているのか、といったぐあいに。

 よく「中国の伝統や国情は西側世界の民主主義には合わない」という言い方がされるが、はたしてそうなのか? そして、このことは「社会主義ならば中国の国情や伝統に合う」ことを直ちに意味するものなのか? 中国は1949年の建国以来、西側世界の民主主義を採り入れたことはないが、社会主義や民主集中制については、すでに70年前後の経験がある。しかし、都市と農村、沿海部と内陸部、政府と庶民の経済格差は今も深刻な課題のままである。この間、大躍進政策の失敗や文化大革命などさまざまな混乱があったが、そうした混乱も政治体制の問題に帰せられるのだとすれば、「中国の国情においてプロレタリア独裁は有効なのか?」といった疑問が出てきてもおかしくないはずである。

 しかしながら、今のように「普遍的価値」にばかり立って中国政府を批判する限り、中国政府が社会主義や伝統思想について何を語ろうとも批判の対象にしかならず、そのことは逆説的に、中国政府が社会主義や伝統思想を代表しきれているかどうかを不問にしてしまいかねない。すると、中国政府の本当の問題点が包み隠されてしまう可能性があることを考えてみるべきではなかろうか。「普遍的価値」に合わないからと批判されたところで、中国政府は痛くもかゆくもないだろうし、むしろ「普遍的価値」を掲げる側から、対立するもう1つの極に押しやられることは好都合かもしれない。つまり、かかる批判はなんの効力も持たない可能性があるのだ。

ノンフィクション作家

1966年福岡県生まれ。東京大学国文科在学中に中国・ハルビンで出稼ぎ労働者と交流。以来、中国に通い、草の根の最前線を伝える。2013年に『中国の草の根を探して』で「第1回潮アジア・太平洋ノンフィクション賞」を受賞。また、東アジアの市民交流のためのNPO「AsiaCommons亜洲市民之道」を運営している。主な著書に『北京芸術村:抵抗と自由の日々』(社会評論社)、『旅の指さし会話帳:中国』(情報センター出版局)、『こころ熱く武骨でうざったい中国』(情報センター出版局)、『反日、暴動、バブル:新聞・テレビが報じない中国』(光文社新書)、『中国人は日本人を本当はどう見ているのか?』(宝島社新書)。

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