テロリストに転落した「革命家」、バセットの死:シリア情勢2019(3)

(写真:ロイター/アフロ)

「イドリブ進攻:シリア情勢2019(2)」の続き)

シリア内戦において興隆した反体制派が、依って立つ理念やアイデンティティを異にする雑多な個人、ないしは集団から成り立っていることはこれまでにもたびたび述べてきた。筆者が「反体制派のスペクトラ」と呼ぶものがそれだ。

そこでは、アル=カーイダ系の武装集団(シャーム解放機構、シャーム自由人イスラーム運動、イスラーム国など)、アル=カーイダの系譜を汲まないジハード主義者(シャーム軍団、シャームの鷹旅団など)、「自由」と「尊厳」の実現をめざす「シリア革命」に邁進する「革命家」(いわゆる自由シリア軍諸派)が、時々の状況に応じて離合集散を繰り返してきた。彼らは「膠着という終わり:シリア情勢2019(1)」で見たシャーム解放機構と国民解放戦線の対立のように分極化することもあれば、「イドリブ進攻:シリア情勢2019(2)」で見た「決戦」作戦司令室のように糾合することもあった。

「革命家」への「なりすまし」

反体制派の離合集散は、彼らが戦いを有利に進め、生存するうえでの実利的な選択であり、依って立つ理念やアイデンティティは容易に度外視された。

アル=カーイダ系の組織にとって、アル=カーイダとして存在を誇示することは、国際テロリストとして国際社会、とりわけロシア、イラン、そしてシリア政府の攻撃の矢面に立たされることを意味した。シャーム自由人イスラーム運動やシャーム解放機構がアル=カーイダとのつながりをことさら否定したのはそのためだった(「ガラパゴス化するシリアのアル=カーイダ系組織」を参照)。

とりわけ、シャーム自由人イスラーム運動の場合は、そうすることでトルコの後援を受ける国民軍や国民解放戦線の一翼を担い、「自由シリア軍」、「革命家」に「なりすまし」をすることができた。

これに対して、シャーム解放機構はアル=カーイダの「汚名」を返上できずにいた。2012年にイラク・イスラーム国のフロント組織であるシャームの民のヌスラ戦線として活動を始めた彼らは、2013年にイラク・イスラーム国との完全統合(イラク・シャーム・イスラーム国結成)を拒否した際、アイマン・ザワーヒリーが率いるアル=カーイダ総司令部の権威に頼ったことが尾を引いたためだ。2016年彼らはシャーム・ファトフ戦線に改称し、アル=カーイダとの絶縁を宣言、2017年にバラク・オバマ前米政権の支援を受けていた「穏健な反体制派」とともにシャーム解放機構を結成した。だが、ロシアやシリア政府だけでなく、国連、欧米諸国も彼らを国際テロリストとみなし続けた。

ジャウラーニー指導者による「革命」唱導

シャーム解放機構が「テロとの戦い」の標的となることを回避するには、これまで以上に「自由シリア軍」、「革命家」を演じることが求められ、そうした姿勢がこれまで以上に顕著になったのが2019年だった。

緊張緩和地帯第1ゾーンの軍事・治安権限を掌握し、同地の覇者となったシャーム解放機構のアブー・ムハンマド・ジャウラーニー指導者は1月14日、アムジャード映像制作機構が配信したインタビュー・ビデオ「唱導と指導」のなかで、こう述べた。

我々はこの革命の一部をなしている。我々は革命そのものではなくその一要素だ…。我々にとっての関心は、アッラーの法(シャリーア)のもとで、正しい方向に進み、行動することにある。人々が自分たちにふさわしい生活状況で暮らすことができるよう、解放区を正しく建設していく…。我々の目的は、この革命に犯罪者体制の打倒という成果を冠することである。それは我々が分裂し、散り散りにならないようにするためだ。そのために、我々はみなと共にありたい。現場で孤立したくはない…。外国の計略、そしてシリア革命に有害な計略に資するようなアジェンダを抱かないようにして欲しい。

インタビューに応えるジャウラーニー指導者(ANHA、2019年1月14日)
インタビューに応えるジャウラーニー指導者(ANHA、2019年1月14日)

ジャウラーニー指導者の発言は、屈服させた国民解放戦線への寛容な姿勢を示すことで、彼らを懐柔することが狙いだった。こうした姿勢が奏功し、シャーム解放機構は、シリア・ロシア軍がハマー県北部とイドリブ県南部への進攻を本格化させるなか、5月に国民解放戦線やイッザ軍と「決戦」作戦司令室を結成することができた。また、これは、ロシア・シリア軍の攻勢を快く感じていなかった欧米諸国やトルコが、反体制派がアル=カーイダの系譜を汲んでいるという事実を無視して、国連の場で、停戦や人道支援を主唱するうえでも好都合だった。

「革命家」バセットの誕生

しかし、このような意図的な「なりすまし」とは逆の動きもあった。「革命家」を自称する、あるいはそうもてはやされた者のテロリストへの転落である。

その典型が「革命のサヨナキドリ」ことアブドゥルバースィト・サールート(バセット)だ。

バセットは1992年にヒムス市で生まれたごく普通の青年だった。地元のサッカー・チーム「カラーマ・クラブ」に在籍し、ゴールキーパーを務め、その腕前はシリアのユース・サッカー代表メンバーに選ばれるほどだった。だが、2011年春にシリアに「アラブの春」が波及し、「革命の首都」と称されたヒムス市など各地で抗議デモが発生すると、これに参加し、注目を浴びるようになった。

シリア軍・治安部隊とデモ参加者や自由シリア軍を名乗る活動家の武力衝突が激しさを増すようになった2011年後半、バセットは、ヒムス市内で武装闘争に身を投じ、バイヤーダ殉教者旅団を結成し、同組織はその後ヒムス軍団の傘下に身を置いた。

筆者は2011年9月にシリアの首都ダマスカス、ダマスカス郊外県各所、ダルアー県各所を「観光」で訪問した。当時、ジャズィーラ・チャンネルやアラビーヤ・チャンネルがシリア各地で抗議デモが発生していると報じていたにもかかわらず、筆者が訪問先でニュースと同じ光景を目にすることはなかった。宿泊先のダマスカスのホテルでこれらのテレビ局が報じたデモの現場に足を運んでも、そこでは何も起きていなかった。

だが、現地の人々が近づかないよう忠告した場所が一つだけあった。ヒムス市だ。当時もっとも激しい戦闘が行われていたヒムス市でバセットが銃を持つようになったのは、今思えば自然の成り行きだったのかもしれない。

バセットは、シリア軍との戦闘で度々負傷、共に戦っていた父、4人の兄弟、親戚をシリア軍の暗殺作戦や攻撃で失っている。

バセットは、ドキュメンタリー映画『それでも僕は帰る:シリア、若者たちが求め続けたふるさと』(タラール・ディルキー監督、2013年)に出演したことで、欧米諸国や日本で広く知られるようになった。抗議デモの指導者から「革命家」となった彼の軌跡を追ったこの映画は、2014年にサンダンス映画祭のワールド・シネマドキュメンタリー部門でグランプリを受賞した。バセットはまた、ドキュメンタリー映画『シリアの悲痛な叫び』(エフゲニー・アフィネフスキー監督、2017年)にも出演した。

ユーチューブやSNSでは、「革命」を賞賛・鼓舞し、仲間の戦闘員らを激励する歌を歌う画像がたびたび公開され、その美しい歌声から「革命のサヨナキドリ」、あるいは「革命の守護者(ゴールキーパー)」として知られるようになった。

「テロリスト」との共闘

シリア軍によるヒムス市への攻撃と包囲が強まるなか、バセットとその仲間は2014年に同市から脱出、当時勢力を増長していたイスラーム国に参加することを決意し、同組織に忠誠(バイア)を誓ったとされる。だが、これはバセットの本意ではなく、ヒムス県で活動を継続するため、資金や食料を得ることが目的だったとされた。イスラーム国側もサールートの忠誠を「不完全」だとして拒否したという。バセット自身も2015年にビデオ声明でイスラーム国との関与を否定した。

だが、イスラーム国への接近(の試み)によって、バセットはヌスラ戦線の追及を受けることになった。バイヤーダ殉教者旅団はヌスラ戦線と度々衝突し、バセットらはトルコに逃れることを余儀なくされた。とはいえ、反体制派のスペクトラのなか、バイヤーダ殉教者旅団とヌスラ戦線の関係はアンヴィバレントなもので、バイヤーダ殉教者旅団は、ヌスラ戦線の傘下に身を置き、ヒムス県タルビーサ市一帯でシリア軍との戦闘に参加したこともあった。

バセットはその後、ヌスラ戦線、シャーム自由人イスラーム運動、シャーム軍団といった(アル=カーイダ系および非アル=カーイダ系の)イスラーム過激派からなるファトフ軍が掌握したイドリブ県に入り、2016年12月16日にイドリブ市で行われたアレッポ市救済デモに再び姿を表した。活動を再開した彼は、2018年1月に、バラク・オバマ前政権の支援を受け、ヌスラ戦線、そしてその後身であるシャーム解放機構と一貫して連携してきたイッザ軍に参加、同組織に所属するヒムス・アディーヤ旅団の司令官として、ハマー県北部でのシリア軍との戦闘を主導した。

活動を再開したバセット(Watanserb、2019年7月8日)
活動を再開したバセット(Watanserb、2019年7月8日)

2019年4月末にシリア・ロシア軍がハマー県北部とイドリブ県南部で攻勢を強めると(「イドリブ進攻:シリア情勢2019(2)」を参照)、バセットが率いるヒムス・アディーヤ旅団はタッル・ミルフ村一帯でシリア軍を迎え撃ち、激しい攻防戦を繰り広げた。だが、善戦も空しく、6月7日に戦闘で重傷を負い、8日に死亡した。

彼の葬儀は、トルコ国境に近いイドリブ県ダーナー市で6月9日に行われた。遺体は、ハマー県北部から一旦トルコのハタイ県レインハル市に移送されたのち、イドリブ県のバーブ・ハワー国境通行所を経由して再び入国、そこで母親や親戚、活動家らの出迎えを受けた。その後、遺体は家族らとともに、サルマダー市を経由し、ダーナー市に移動、同地にあるアブドゥッラフマーン・モスクで葬儀が行われた。反体制系メディアによると、レインハル市、バーブ・ハワー国境通行所では、シリア難民やトルコの住民数千人が遺体を出迎え、「シリア革命」のスローガンが連呼された。また、トルコのイスタンブール市、ガジアンテップ市でも追悼集会が行われた。

SNSでは彼の死を悼む多くの書き込みがなされた。その過熱ぶりは、フェイスブックが、反体制系サイトのザマーン・ワスルTV、活動家のマーヒル・シャラフッディーン、マーズィン・ナートゥール、そして在仏シリア人フォーラムなど一部利用者の書き込みを、「規約違反」、「コミュニティ規定への抵触」にあたるとして削除するほどだった。

彼の死を悼んだのは、「革命家」や「市民」だけではなかった。シャーム解放機構も6月9日に声明を出し、バセットに弔意を示した。

シャーム解放機構による追悼声明 (2019年6月9日)
シャーム解放機構による追悼声明 (2019年6月9日)

シリア政府支配地域でも、6月9日にラタキア市(スライバ計画開発地区)でバセットとの連帯を訴えるデモが行われ、10日にはダルアー県フラーク市でバセットとの連帯を訴える落書きが発見された。とはいえ、政府支配地域で暮らすほとんどの人々にとって、彼の死は一人の「テロリスト」の死以外の何ものでもなく、それが政府系・親政府系のメディアで「戦果」として鼓舞されることすらなかった。

残された者たちの空しい決意

6月10日、バセットの母親は弔問に訪れたイッザ軍のジャミール・サーリフ司令官、ムスタファー・バクール報道官らに、「革命家」に向けたメッセージを託した。その内容はこのようなものだった。

そうです、バセットは逝ってしまいました。でも、私はどのシリア人革命家を目にしても、そのなかにバセット、そして彼の兄弟たちの面影を目にします。

そうです、私は息子を亡くしました。でも、私はあなた方全員を息子のように見ています。あなた方がバセットや彼の同志だった殉教者を失ったことで、自分たちの決意を弱めたり、進むべき道に影響が生じたりすることを許さないでください。

あなた方に対する私から助言は、バセットの魂、すべての殉教者の魂のために、道を貫いて欲しい、自らの決意を弱めないで欲しいというものです。

私はあなた方の支えは必要ありません。私はあなた方がバセットとともに始めたことを貫徹し、勝利を実現せずして、立ち止まらないで欲しいのです。

ウンマ、子供たち、孫たちの未来はあなた方の手のなかにあります。それを見失わないでください。

バセットを失ったヒムス・アディーヤ旅団は6月21日、アブー・ムハンマド・ムハージルを名乗る人物を後任の司令官に任命したと発表した。バセットの死は、それが「革命家」の死であれ、「テロリスト」の死であれ、何も変えることはなかった。

「化学兵器騒動の末路::シリア情勢2019(4)」に続く)