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山で「瀕死の男性を置き去りにした」と責められた登山家、性差別、憎悪とフェイクニュース拡散問題

鐙麻樹北欧・国際比較文化ジャーナリスト|ノルウェー国際報道協会役員
登山家として新記録を打ち立てたクリスティン・ハリラさん(写真:ロイター/アフロ)

ノルウェー系サーミ人のクリスティン・ハリラ(Kristin Harila)さんは7月に「世界で標高8000メートル以上の高峰14座を3カ月と1日で登頂する新記録を打ち立てた」登山家だ。日本語メディアでは、登山途中で瀕死の男性を「置き去りにした」と非難を浴びたことのみが伝えられている。

ノルウェーでは「ハリラ」という名前で有名になったこの女性登山家が、9月末に開催されたオスロ・イノベーションウィーク(Oslo Innovation Week)のクリーンテックイベント「The 2030 Summit」に登壇し、現場で何が起きたかを説明した。

「私がノルウェーに帰国して以来、事故のことばかりが注目されました。まず第一に言いたいことは、あれは世界で最も危険な山での悲劇的な事故であり、誰かを担いで降りることが不可能な最も危険な場所・ボトルネックでの出来事だったということです。もしそこで何かが起こったとしても、人命を担いで下山できる可能性はごくわずかで、実際に4人に1人は亡くなっています。あの場では、私たちは彼がポーター(登山隊の荷物を運ぶ人)なのか、登山者なのかさえもわかりませんでした。今となっては、彼は登山するではなかったのだとわかります。彼はベースキャンプより高いところに登った経験もなく、ダウンスーツを着ていなかったし、酸素も持参していませんでした」

メディアはハリラさんの対する道徳や責任批判ばかりを報道したが、報道の在り方にハリラさんは疑問と恐れを感じたという。

「特にソーシャル・メディアで人々が憎悪や間違った情報を広めているのを見ると心配になります。正しい情報を知っているにもかかわらず、間違った情報を広める人がいたことも私たちは知っています。『お前の足を切断してやる』というような200通ほどの殺害予告も届きました。私はパキスタン政府や警察と接触したことはないし、捜査の対象にもなりませんでした。これでは『何を信じてたらいいのか?』と心配になります」

「山でのリスクを減らすためにできることはたくさんある」として、ベースキャンプに優秀なチームを置いて、天気予報をもとにロープや酸素など登山に必要なものすべてを準備しておくこと、良いチームと一緒にいることが必要だと語った。

山に欠けているジェンダー平等

「山がそこにある限り、私たちは山に登るでしょう」と話すハリラさんは、今後は家族や友人との時間を増やすつもりだそうだ。そして悲劇的な事故が繰り返されないような「安全な登山」と登山界での「ジェンダー平等」に取り組む意欲を見せた。

「カトマンズでダウンスーツを買おうとしたときも、女性用のダウンスーツは見つかりませんでした。クライミングウェアの製造会社が大きなサイズを作っていましたが、ハイキングに行けたいすべての女の子に『山は男性のためのものだ』と言っているようなものです。ブランド側も男女のどちらを応援しているのか自覚しているようでした。私がエベレストに行ったグループには、女性の応募者は5人中5人だったのに、男性の応募者は14人中6人でした。『何かを変える最善の方法は、私たちが最強に強い』ことを証明するしかないと感じました」。登山中は小さい子どもを他人に預けていることが発覚して、SNSでは「母親が子どもを置き去りにして登山している」と責められた。

ハリラさんのメッセージは、女性登山家に対しての偏見や先入観が存在し、遠く離れた場所での出来事がSNSでフェイクニュースや負の感情を生み出しやすい問題を示していた。

オスロ・イノベーションウィークでスピーカーとして登山家体験を語るハリラさん 筆者撮影
オスロ・イノベーションウィークでスピーカーとして登山家体験を語るハリラさん 筆者撮影

記録達成をした女性登山家であるハリラさんにまつわる数々のエピソードは、まだまだ性差別がこの社会で残っていることを実感させる。ノルウェーに帰国した彼女はメディアが取材したい相手として人気だ。だが、公共局NRKの人気トークショーに彼女はノルウェーでは有名な冒険家Jens Kvernmoさんという「新しい彼氏」と一緒に登場し、他の有名な男性も加わり「自分の登山話」をした。彼氏はハリラさんと同じくらいに「話す時間」を与えられ、「どうしてテレビ局は彼氏が一緒でないといけないと判断したのか。女性の成功というテーマに価値はないのかとがっかりだ。私はもっと彼女のモチベーションや身体的・精神的にいかに成し遂げたのかを聞きたかった」と議論を呼んだ。「平等が進んでいる北欧」と思われやすいが、ノルウェーの報道でもジェンダー平等においてはまだまだ課題があることことを再認識させる出来事だ。

女性登山家として活躍するハリラさんの力の源泉は筆者も気になるところなので、最後は彼女のスピーチ内容の一部を紹介してこの記事を終えたいと思う。

ハリラさんはもともと登山達成が「無理だ」とは思っていなかったという。

「不安はまったくありませんでした。悪天候に見舞われたり、調子が悪くなったりして、降りて登り続けなければならないかもしれないとは思っていました。でも、必ずやり遂げると信じていたし、恐れてもいませんでした」

「私にとっては、ただ座っているよりも、生きていること、好きなことをすることの方がずっと重要なんです。誰もがいつかは死にます。生きていること、やりたいことをすること、好きなことをすることのほうがずっと大切なんです」

AFP 記録達成のノルウェー人登山家に非難集中 ガイドの死めぐり

The Guardian: Norwegian mountaineer says her team tried to save porter who died on K2

NRK: Harila har satt ny verdensrekord: – Krevende forhold

Dagbladet: Er ikke kvinners suksess interessant nok for Lindmo?

Dagbladet: Hardt ut mot Lindmo-intervju

Text: Asaki Abumi

北欧・国際比較文化ジャーナリスト|ノルウェー国際報道協会役員

あぶみあさき。オスロ在ノルウェー・フィンランド・デンマーク・スウェーデン・アイスランド情報発信15年目。写真家。上智大学フランス語学科卒、オスロ大学大学院メディア学修士課程修了(副専攻:ジェンダー平等学)。2022年 同大学院サマースクール「北欧のジェンダー平等」修了。ノルウェー国際報道協会 理事会役員。多言語学習者/ポリグロット(8か国語)。ノルウェー政府の産業推進機関イノベーション・ノルウェーより活動実績表彰。著書『北欧の幸せな社会のつくり方: 10代からの政治と選挙』『ハイヒールを履かない女たち: 北欧・ジェンダー平等先進国の現場から』SNS、note @asakikiki

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