「幸せは冷蔵庫の残り物で作る料理にある」――秋元康が語るスター、ヒット、自分
「自分は何を根拠に、どんな理由でこの仕事をしているのか。46年間も自分の意思とは関係なく、何かに押し流されるように生きてきてしまった」。秋元康、63歳。作詞家、放送作家、プロデューサーとしてヒットを生み、社会現象を巻き起こしてきた。作詞を手掛けたシングルの総売上枚数は歴代日本一。今も毎日締め切りを抱え、3時間睡眠で仕事をする。めまぐるしい日々のなか、落ち込むことはほとんどない。秋元康とは何者なのか、本人に聞いた。(文中敬称略/取材・文:塚原沙耶/撮影:木村哲夫/Yahoo!ニュース オリジナル RED Chair編集部)
運に導かれ、「浅く腰掛けただけの人生」
「自分は何者なのかが分からないし、何をしてるんだろうと時々思います。高校の時にアルバイトのつもりで放送作家を始めたところから、いつの間にか、それを生業(なりわい)としてしまった。何かこう、浅く腰掛けただけの人生のような感じがするんです」 肩書を書かなければならない時は「作詞家」と書いている。 「美空ひばりさんの詞を書いた時に、ひばりさんが『いい詞ね』とおっしゃってくださった。あれだけの方に褒められたのだから、作詞家って名乗っていいかなと。それまでは、自ら『作詞家』と名乗るのは恥ずかしかったですね。『何とかプロデューサー』というのも恥ずかしいので、肩書を聞かれると、『作詞家』と答えています」 これまでの道のりから、人生は運に翻弄されると実感している。 「タレントの浮き沈みや、スターが誕生するさまをずっと見てきたので、才能や努力だけではない不思議な力が働いていると感じることがあります。僕の人生は出会いの中で道が決まっていたようで、運でしかないなと思うんです」
「多くの天才が僕を思考停止にした」
最初に運を意識したのは、少年時代にさかのぼる。進学塾に通う同級生の影響で、一流中学、高校から東京大学に進み、将来は大蔵省の官僚になると思っていた。ところが、中学受験に失敗した。 「同じぐらいの学力で、受かる人、受からない人がいる。不条理を感じましたよね。最終的には東大に行って官僚になろうと思っていて、高2くらいから受験勉強しようとしていたんですけど、当時ラジオの深夜放送がブームで。募集があったわけでもハガキ職人だったわけでもないのに、コクヨの原稿用紙を買ってきて、なぜか書いたんです」 ニッポン放送『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』に「平家物語」のパロディーを送った。それが、放送作家の奥山てる伸(「てる」の字はにんべんに「光」)、後に同社の社長となる亀渕昭信らの目に留まる。たまたま書いた一通で、放送作家生活がスタートした。 「授業中に見よう見まねで、いろんな台本を書いていました。17歳の時、ニッポン放送のラジオで山口百恵さんの番組をやってたんです。学校に帰れば、みんなが『山口百恵、山口百恵』と騒いでいるなか、僕はスタジオで、彼女の前で一緒にハガキを選んだり、トークの内容を打ち合わせたりしていた。大人の世界に迷い込んだみたいで不思議な感じがしましたね」