防備とは「戦争をしないための準備」 最小戦争論を考える
最小損害戦争
時代によって戦争は変わる。 ここで詳述はできないが、大きくいえば戦争は、「勇者の戦争-未文字文化」から「組織の戦争-文字と国家」そして「機械の戦争-近代文明」へと代わり、やがて「AIの戦争-広義のサイバー」に代わるだろう。しかもその変化は加速的だ。 実際に、現代はサイバー戦争が大きな割合を占め、リアルの戦場では戦車や戦闘機よりドローンが主力である。経済も安全保障と一体化しつつある。またアメリカも、中国も、加えて韓国も、北朝鮮も、ロシアも、その政治と経済の実態が、時事刻々と変化しつつある。 そういったことも含めて、防備と開戦の距離をできるだけ保ち、やむなく開戦に至ったときは常に撤退と講和と復興を計画し、戦争の長期的な損害を最小化しなくてはならない。現代日本の政治家にそういうことが期待できるだろうか。今マスコミを賑わしている政治イシューはいかにもドメスティック(国内的)だ。 戦後経済成長で大成功したカリスマ経営者たちが、バブル崩壊ですべてを失って語ったことはただひとつ「撤退の決断ができなかった」である。戦争も経営も同じようなものか。現代の日本の法制においては総理大臣が戦争の最終的な指揮官である。われわれは、今述べたような超戦略上の判断が下せる、戦争指揮官としての総理大臣を選ぶ必要があるのだ。 本稿で「防備」という言葉を使ったのは、戦争をするための準備ではなく、戦争をしないための準備という意味においてである。常にそのことを忘れなければ、防衛戦略も、その戦術も、心構えも違ってくるはずだ。新しい大統領を選んだ、ほとんど攻め込まれたことのない国との同盟によって、戦争をしないための準備が戦争をするための準備に近づいてくることを心配する。