防備とは「戦争をしないための準備」 最小戦争論を考える
武士の戦争と秀才の戦争
明治以後、日本では対外戦争が続いたが、日清戦争、日露戦争あたりまでと、日中戦争、太平洋戦争とでは、ずいぶん様子が違っていた。国家の損得として、前者はまあうまくいき、後者は最悪の結果となった。同じ近代日本の選択であったが、この違いはどこからきたのか。 日清日露時代の指導者たちは、伊藤博文や山県有朋、東郷平八郎といったいわゆる薩長閥である。もとは幕末維新の動乱を生きた下級武士たちであり、白刃の下をくぐり抜けてきただけに戦争の怖さを知っていた。幕末にはテロの頻発もあり、薩英戦争、下関戦争といった列強に対する戦争もあり、安政の大獄という大粛清もあり、維新のあとは、西南戦争に至る反乱が続いた。伊藤も山県も、動乱と戦争の損得を計算しながら巧みに生き延び、出世し、国をリードしてきたのだ。 しかし昭和初期の日本をリードしたのは、帝国大学出の秀才政治家と官僚、および陸軍士官学校、海軍兵学校出の秀才軍人に加えて、主として東北寒村から出てきた青年将校である。下級武士上がりの政治家および軍人と、学校秀才+農村軍人とでは、戦争に対する考え方に大いに差があったのだ。前者は皮膚感覚で戦争の怖さを知り、巧みに損得勘定をしていたが、後者は秀才の理論と農村軍人の魂との葛藤でいざというときに的確な判断ができなかったのではないか。 とはいえ薩長閥が正しかったというわけではない。明治期の軍人たちは昭和期には長老的な立場となって発言したが、日露戦争の成功体験から抜けきれず、近代的な戦術の変化についていけなかった。 また終戦後の総括としては、丸山眞男の日本ファシズム論に典型的なように、主として東北寒村出身の青年将校らによる軍部の現場独走が戦争の原因という考え方が常識となっている。しかし僕はむしろ、政治家、官僚、エリート軍人、知識人、マスコミなど、学校秀才たちの責任が大きかったと考えている。急速な近代化によって急速に出現したエリート層は地に足を着けていなかったのだ。