考察『光る君へ』18話 道兼の死に涙するとは…玉置玲央に拍手を!まひろ(吉高由里子)は人気ないらしい道長(柄本佑)に「今、語る言葉は何もない」
道兼「こんな悪人が」
道兼への関白の宣旨。 「兄上ならよき政ができましょう」 疫病に苦しむ民の為の救い小屋を公費で、という道長(柄本佑)の進言に勿論だと即答する道兼には、道長と同じく信頼が置ける。 「まずは租税を減免し、新規の荘園を停止しよう」 第5話で花山帝(本郷奏多)が推し進めようとし、兼家(段田安則)ら関白・左右大臣がおののいていた、荘園整理令である。民のため減税する代わりに、貴族・寺社の私的財産である荘園新規開発を禁じ、その分、国庫に入る税収を増やそうという計画だ。道兼も貴族であるから、まさに身を切る改革に着手しようとしている。 他の有力貴族からの反発を招く可能性はあるが、道兼と道長、兄弟ふたりで手を取りあえば理想の政治を実現できたかもしれない。なのに。 道兼、倒れる。 「出て行け、早く。俺を苦しめるな」 病以上に、弟・道長に疫病をうつしてしまうのではないかという恐れそのものが苦しいのだと。家族を愛し兄を支える姿勢を変えない道長が、道兼をまっとうな道に引き戻しただけでなく、弟と、世に在る人々を愛する人間にまで引き上げた。 しかし、自分がそうした人間となったのだとは思っていない道兼は、仏にすがろうとする自分を嗤う。 「俺は浄土に逝こうとしているのか。……無様な。こんな悪人が」 善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや (善人が救われるのだから、苦しみもがく悪人が救われぬはずがない) 『歎異抄』のこの言葉を思い出す。道兼は、自らの手で行った罪を悔いていた。そうでなければ、自分のことを「悪人」とは思うまい。そしてその罪ゆえに父・兼家(段田安則)に絡めとられた人生で苦しんできた……『歎異抄』の考え方であれば、彼は救われるはずだ。 第1話の時点では、道兼に同情しその死に涙するとは思ってもいなかった。複雑な役を演じ切った玉置玲央に心からの拍手を。お疲れ様でした。
琵琶を奏でるまひろ
いくら身内だけの場とはいえ、道兼の死を喜び、それを隠しもしない伊周、隆家(竜星涼)。 「父上がお守りになったのですよ」という貴子(板谷由夏)の言葉に、第7話を思い出す。 「お前を置いてはゆかぬ」という道隆の言葉どおり、まるで彼によって連れ去られたかのように、道兼は逝った。 そして妻の、母の仇である道兼の訃報を知った、為時とまひろの父娘は 「仇とはいえ、これでよかったとは思えんの……さぞや無念であったろう」 「あの御方の罪も無念も、全て天に昇って消えますように」 琵琶を奏で、道兼の死を悼む。その音色は第8話で彼に聞かせたものとは全く違う。己の思いも静かに昇華させるような演奏だった。 終わったのだ。なにもかも。 伊周たち中関白家と、為時・まひろ父娘の描かれ方が対照的である。為時の人物像は、単なるおひとよし、善人というのとは違う気がしている。第4話でまひろは「論語も荀子(じゅんし)も墨子も、人の道を説いております」と言った。この父と娘は、人間としての骨子を学問によって形作り、無位で貧しくとも損なわれない品格を身に着けたのではないだろうか。