世界の主導国は現実拒否の姿勢を変えられるのか? 広島サミットに考える
軍国主義と平和主義の モニュメンタリティ
広島の平和記念公園の意味を語るために、まず自分の専門である建築の話をしたい。 伊勢神宮は、天武天皇の時代、すでに法隆寺などの仏教寺院が「瓦葺・朱塗り・基壇の上」という中国からの様式による耐久力のある壮麗な建築としていくつも建立されていたときに成立した、天皇家の祖を祀るいわば日本文化の祖型としての建築である。もちろん耐久性と壮麗さは必要であるが、中国式すなわち外来の様式にはしたくない。「藁葺・素木・掘立柱」という日本古来の様式によりながら、いかにして永遠の生命を確保するのか、という困難な問題に対して、20年ごとの建てかえ、すなわち「遷宮」というものを制度化し、持統天皇の代から今日に至るまで(多少のブランクはあったものの)守りつづけてきたのだ。いわば当時の先進国としての中国と、国際思想としての仏教に、対峙するものとして工夫された日本文化を象徴する空間のシステムである。 今の宮司や学者たちはテレビ番組などで、遷宮は建築技術を伝承するためだとか、建てかえのとき古い木材を末社で再利用するからエコだとか説明しているが、昔の人はそんなふうには考えないものだ。 一方、広島の平和記念公園は、戦後、建築家丹下健三によって設計された。焼け跡からの復興をめざす広島の街に、水平に延びる原爆資料館を建て、アーチ状の慰霊碑から原爆ドームを見通す軸線を設定するのは、いかにも丹下らしい(当時の建築界の大スターであったル・コルビュジエの影響が見られるものの)大胆かつ明瞭な日本的記念性をもつ空間である。 しかしコンペ(設計競技)で一位となったこの設計案は、戦時中に丹下が「大東亜記念営造計画」のコンペで一位を獲得した案と類似していた。その案には伊勢神宮に似た大屋根の建築が配されていたが、広島ではモダニズムを象徴する陸屋根の水平線に代わっている。丹下健三という一人の建築家によって、奇しくも伊勢と広島が結びつくのだ。 しかし戦後日本は反軍国主義の意識が強かったので、丹下は大いに批判されたのであるが、今では忘れられて、彼の才能と実績だけが喧伝される傾向にある。僕はここで昔の批判をむしかえす気はない。しかし、大東亜の軍国主義と、そこから生まれ変わったはずの、反戦反核の平和主義とが、同じ設計者による同系の記念性(モニュメンタリティ) すなわち「清冽な直線性」として空間化されたことは、日本国の文化的属性を示すものとして、記しておきたい気がする。