世界の主導国は現実拒否の姿勢を変えられるのか? 広島サミットに考える
現実拒否の二つのタイプ
アメリカの現職大統領が広島を訪れることには、アメリカ国内の保守派から強い反対があるようだ。原爆投下に対して「戦争を終わらせた功績」としての意味と「人道に反する虐殺」としての意味とが葛藤をつづけているからであろう。これまでは前者の意味の方が圧倒的に強かったのである。 また今回、核保有国であるイギリスの首相、フランスの大統領にも、原爆資料館の、特に本館(悲惨な展示が多い)の訪問には、強い抵抗があったという。しかし岸田首相は原爆資料館の本館訪問にこだわり、水面下でギリギリの交渉がつづいたようだ。 このアメリカ、イギリス、フランスという三つの国に共通するのは、G7サミットのメンバーで、西側先進国で、国連の常任理事国で、核兵器を含む軍事力によって世界に君臨しようとしているということである。経済力という点では日本やドイツも大きいのだが、第二次世界大戦の枢軸国(敗戦国)として核兵器をもたず、上記三つの国とは異なっている。また核兵器を含む軍事力という点では中国やロシアが大きいのだが、こちらは自由主義、民主主義に反するという思想と制度の点で 、上記三つの国とは異なっている。つまり米英仏の三国は「武力と思想」の両面で、現在の国際社会を主導する国としてふるまっているのだ。 その世界の主導国の指導者が、これまで核兵器被害の現実を見ようとしなかったのは、どういうことか。現実を見ないことによって自らの「武力と思想」の優位性を維持しようとしているように思える。核兵器という「武力」のもたらす現実が、人道という「思想」の理念に反することを、社会に対しても、一人間としての自分にも、うまく説明できないからであろう。残念ながら、世界はこのような人々と国家によって主導されてきたのである。 そしてもうひとつ、現実を見ようとしない国があったのではないか。日本である。本土空襲や沖縄戦や原爆投下による悲惨をイヤというほど味わった日本は、戦後、二度と戦争をしないということを肝に銘じて、平和憲法を策定し、世界の「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」という現実に目をつぶってきたのかもしれない。世界の現実は、日本国憲法の前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義」とは、かけはなれた状況にある。 米英仏三国は、自己の悪(優越する武力が犯す罪)という現実を見ようとしなかった。 日本は、自己の愚(無垢の平和主義の弱さ)という現実を見ようとしなかった。