世界の主導国は現実拒否の姿勢を変えられるのか? 広島サミットに考える
理想と現実に距離があるのは当然
しかし今回、サミットに集まった首脳たちは、原爆資料館をしっかりと訪問した。日本はそれが政治的な合意の背景となるようにお膳立てした。 ウクライナにおけるロシアの暴挙、軍事と経済における中国の台頭が、米英仏三国を含む首脳たちに、核兵器というものの現実を見る必要を迫っているのか。また日本には、世界のバランス・オブ・パワーの現実を見る必要を迫っているのか。 その意味で、広島におけるG7サミットは、米英仏の優越の夢を破り、自らの「悪」の現実を認識させ、日本の泰平の夢を破り、自らの「愚」の現実を認識させる契機となったというべきか。そしてこの現実認識は、今後の、対ロシア、対中国の戦略路線にどのような影響を及ぼすのか。 そしてもうひとつ、日本は唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止条約を批准していない。アメリカの核の傘に守られているという現実がそうさせているようだが、僕はこのことにやや違和感を抱いていた。 文化論者として、理想としての核兵器禁止と、現実としての核の傘とは、矛盾しないのではないかと思うのだ。地球を何十回も破滅させるほどの核兵器の準備と使用を禁止することを望むのは人間として当然である。また世界の多くの国が核兵器を含む軍事力のバランスの中で自国の安全を考える必要があることもまた当然である。 誰にでも理想と現実があり、そのあいだにはそれなりの距離があるものだ。現実を見ない理想主義者は危険であり、理想をもたない現実主義者は品がない。これまでの米英仏三国が自己の悪という現実を見ないこと、日本が自己の愚という現実を見ないこと、どちらもそれを転換して現実を見ようとすることは、理想と現実の距離を認識する勇気をもつことである。 そしてなんとかしてその距離を、現実を理想に近づけることによって縮めようと苦悩するのが人間というものだ。 岸田首相は、この点にどこか腹をくくった覚悟があるように思える。 いずれにしろ、資料館を出てきた首脳たちが慰霊碑に献花するテレビ中継を見て、何かひとつ、戦後という時代に終止符が打たれたような気がした。 それからまもなく、ウクライナのゼレンスキー大統領が来日するという一報が入った。さすがに、他国の首脳たちと比べて険しい表情を崩さなかったが、彼の対面での出席によって「平和のためのサミット」という意義に臨場感が与えられ、国際社会における日本のプレゼンスも大いに高まったと思われる。 しかし同時に、ヒロシマという一種の「聖地」が、戦争の絡んだ国際政治に利用されるという、一抹の危惧も感じざるを得なかった。