【福島原発事故11年】「小さな安心のために大きな安全を犠牲に」未知のリスクと向き合えない日本 第二次民間事故調・鈴木一人座長に聞く #知り続ける
「ゼロリスク志向」反映する政治 科学に判断丸投げ
――そもそもリスクとは何か、がうまく理解できていない。だからリスクとうまく付き合うこともできていない、と感じます。 「ゼロリスク志向」なんてよく言われますけど、「リスクはゼロでなければならない」という、ある種の教条主義的な発想があり、それが正義になっている感じがします。例えば国会審議。野党の議員たちが与党を「でもそんなことがあったら大変なことになっちゃうじゃないですか」みたいに攻撃しますよね。 つまり何か不都合なことが起こること、それは「悪」であって、不都合なことが起こらないことが「正義」である。リスクに対応できていないのは「悪いこと」であり、「能力がないこと」である。責任ある立場の人間であればちゃんとリスクに対処できて「当たり前」で、できてなかったら「落第」。そういう評価の仕方になっているのだろうな、という印象をしばしば受けます。 ――原発事故もそうですが、リスクについて考える時、専門家の役割が重要になってくると思います。政治と科学の関係の問題点についてはどのように考えますか? 一つは、政治と科学の関係でリスクについて考えると、政治は「ゼロリスク志向」のような空気感を反映しちゃうわけですね。国民の不安とかを直接引き受ける立場にある。一方、専門家は、より具体的な科学的な見地からリスクを見るわけです。どっちが勝つかは、状況によって異なる。 ただ、政治がしなければいけない判断なのに、それを全部科学者に丸投げしてしまっている部分がやっぱりある。政治は科学に対して素人ですから、その素人が政治家として判断するというよりも、素人だから科学者に任せて科学者が判断したことをそのままエンドースする(※承認する、推奨する)というのでしょうか。そのうえで「自分たちは悪くない」という演出をしたがる傾向はある。典型的には、福島原発事故の時の菅直人首相と班目(春樹)原子力安全委員長の関係に現れているのかな、と。