コロナ禍の震災語り部たち 冷たい慰霊碑「ぜひ触りにきて」 オンラインで当事者たちが紡ぎ出す言葉を追体験 #知り続ける
東日本大震災が発生した3月11日を「防災教育と災害伝承の日」にしようという動きがある。「防災教育」と「災害伝承」。この二つのまさに大きな担い手となっているのが、「あの日」のことを伝える語り部たちだ。しかし、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めて2年が経つ。語り部たちの活動も苦境に立たされているのではないか。そう思って取材を進めてみると、なかなか現地に来てもらえないことにもどかしさを感じながらも、発信の仕方を工夫し、声を届け続けている語り部たちの姿があった。(文・写真:ライター/ジャーナリスト・飯田和樹)
現地に足を運ぶことの意味
JR仙石線の車窓から、雪がちらほらと舞っているのが目に入った。11年前の3月11日も寒い日で、まだ「被災地」と呼ばれる前の東北地域のあちこちで雪が降っていたと聞いたことを思い出す。川沿いにある津波の到達地点を示す看板が目に入る。まもなく石巻駅に到着する。大津波の爪痕がまざまざと残っていた、初めて訪れた時の石巻市の様子が脳裏に浮かんだ。 2022年2月23日。私は、東日本大震災の津波と火災の延焼で500人もの尊い命が犠牲になった石巻市南浜地区に建てられた「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に向かっていた。公益社団法人「3.11みらいサポート」が主催する「県内語り部講話」で、名取市閖上(ゆりあげ)地区で震災の語り部として活動する丹野祐子さんの話を聞くためだった。石巻駅から伝承館に行くには、日和山を越えなければならない。11年前、多くの人が避難した山であり、多くの人がたどり着けなかった山だ。 帰りは歩くことに決めていたが、行きは講話のスタート時刻に間に合わせるためにタクシーに乗った。いったん坂道を登った車が、ほどなく下り始める。次第に海が見え、伝承館がある「石巻南浜津波復興祈念公園」が見えてきた。自分の記憶にある風景とは違ってきれいに整備された街を見て、心がざわつく。11年前にはなかったQRコード決済で料金を支払い、車を降りた。もう雪は舞っていなかったが、海が近いせいか風は冷たい。あの日、着の身着のままで逃げた人たち、そして逃げ切れなかった人たちはもっと寒く、冷たい思いをしたはずだ。 そんなことを考えていると、直接、語り部の話を聞きに行くこと、それ自体が伝承活動の一環なのだと気付いた。