【福島原発事故11年】東電の津波対策はなぜ先送りされたのか? 「民間事故調」報告書より #知り続ける
2011年3月11日。東北地方太平洋沖でマグニチュード(M)9.0という超巨大地震が発生し、東北地方から関東地方にかけての太平洋沿岸を大津波が襲った。大量に押し寄せた海水は、東京電力福島第一原子力発電所(福島第一原発)の原子炉の冷却機能を奪い、福島県沿岸地域の浜通りを中心に景色を一変させ、人々の心に深い傷跡を残した。 【福島原発事故11年】「処理水問題」はなぜこじれたのか? 「民間事故調」報告書より 10年以上が経過した今なお、この未曾有の大事故の影響は、日本社会にさまざまな形で影を落としている。こうした中、民間の立場から独自に福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)を設置し、2012年に調査・検証報告書を刊行したシンクタンク「日本再建イニシアティブ」が昨年、さまざまな角度から「10年後のフクシマ」を検証し、「福島原発事故10年検証委員会 民間事故調最終報告書」を刊行した。 「THE PAGE」は、日本社会の「いま」と「これから」を考える上で、避けては通れない福島第一原発事故から得た課題や教訓を「学ぶ」ために、同報告書の一部を抜粋し、要点をまとめた形で紹介していく。
津波想定は「変えず」届かなかった現場の提案
2017年以降の刑事裁判の過程で新たな事実が明るみに出たのは、東電はなぜ津波への備えができなかったのか、という最重要の問題である。事実関係の詳細は、2012年から2013年にかけて東京地検の捜査によって把握されたが、その時点では公表されず、2017年から2019年にかけて公判廷に捜査記録が提出され、東電社員の証人尋問が実現したことで初めて世間に知られるようになった。 「私は、15.7メートルという数値に強い違和感を覚え、その水位に対する対策工事を実施するのは現実的ではないと思い、反対的な立場でした。吉田(昌郎)部長は、その水位に対する対策をとることに、少なくとも賛成していませんでした」(東京地検の聴取に対する山下和彦所長の供述) 2008年春、東電子会社の東電設計が、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)による長期評価(地震の規模や一定期間に地震が発生する確率を予測したもの)に基づいて津波の高さを計算したところ、福島第一原発には敷地の高さ10メートルを越えて、最大15.7メートルの津波が来襲する可能性があるとの結果が出た。東電本店の土木グループは、津波想定の大幅引き上げとそれに見合う対策工事が必要だと認識。沖に防波堤を建設し、敷地上に防潮壁を築くなどの計画の検討を始めた。 しかし、土木グループを統括する原子力設備管理部長だった吉田昌郎(まさお)、同部のナンバー2にあたる地震対策センター所長だった山下和彦は、土木技術者らとは異なる認識だった。 同じ年の7月の会議で、土木学会(公益社団法人)に長期評価の扱いの研究を依頼し、その結果が出るまでは従来の手法による津波想定(5.4~5.7メートル)のままとする方針が決定される。土木調査グループ(土木グループから改組)の課長だった高尾誠はそのときの会議のことを、後の法廷で「力が抜けた」と繰り返し表現する。現場の技術判断と異なる結論だった。高尾の部下にあたる金戸俊道も「対策工事は必要だと思っていました」と証言。土木調査グループのグループマネージャーだった酒井俊朗は、このような決定について「時間稼ぎ」と受け止めた。 翌2009年の7月、津波対策の本格検討について酒井は部下からの提言を受け、原子力設備管理部内の機器耐震グループのマネージャーに相談したところ、次のように言われた。 「津波の(想定)水位すら決まってないものを、今、あれだけ忙しいメーカーに提示して、で、なんか考えてよってできますか、酒井さん」 吉田部長らの上司にあたる原子力・立地本部副本部長の武藤栄常務(当時)は前年7月末に、津波の高さ想定は土木学会に研究を依頼すると決めていた。酒井ら土木調査グループはそれに従わざるを得なかった。対策の必要性は認識していたが、津波の想定水位が出てこなければ、対策を進められない。このときの東電の津波対策検討は2008年の先送り決定によって自縄自縛に陥っていた。