【福島原発事故11年】「小さな安心のために大きな安全を犠牲に」未知のリスクと向き合えない日本 第二次民間事故調・鈴木一人座長に聞く #知り続ける
未知なリスクは「ないことにする」悪癖を繰り返す
――「事故があっても日本は変わらない」という話をされましたが、この国自体が抱えている根本的な課題のようなものはあるのでしょうか? 日本社会というのは、地震や災害などいろんなリスクを背負っていると思いますが、そのリスクを「全部分かっていないとイヤだ」という社会だと思うんです。だからリスクはノウン(既知)なものにしたい。リスクをすべて分かったものとして「これだけやっていれば大丈夫」という安心を優先する。 報告書の最後のところで「小さな安心のために大きな安全を犠牲にするな」と書きました。ノウンなリスクにすることで安心する、言い方を変えると、アンノウン(未知)なリスクはないことにする。しかしそうなると、アンノウンなリスクが来てしまった時にみんなパニックというか、どうしようもなくなる。これが結局、福島の事故だったわけですが、「それを繰り返している」と強く感じています。 ――「安心・安全」という言葉はセットで使われることが多いですが、完全な安全を強調したり、安心を強く求め過ぎたりすると、本当の安全からどんどん遠ざかってしまう印象です。 そうですね。どちらかというと、「安全から遠ざかる」というより、「安心にしがみつく」といったほうが適当でしょうか。安心にしがみつくがゆえに、安全のことはなかったことにしよう、と対処するというところが問題です。では、「安心する」ことから離れるにはどうしたらいいのか。私はそこに「人間としての強さ」みたいなものが必要になってくると思っています。 例えば今、ウクライナ危機のさなか、現地のいろんな人のインタビューを聞いていると、自分ではコントロールできないリスクがあることを認めつつ、それでもいざという時に何をしたらいいのか、ということを考えている。それが必ずしもうまくいくわけではないでしょうが、「自分はやるべきことをやった」という受け止め方ができる。そこに日本人との違いがあるように思うのです。 日本の場合、「そんなことあったら怖いじゃない」「そんなことは絶対あってはならない」などと言って、先回りして不安に対する手当てをする。私も日本人なので、日本人の不安に対する敏感性みたいな感覚は分からないでもない。でも、不安があるからすべて対処しなきゃ、と言っていたら、対処しなければいけないことが無限に出てきます。人間が把握できるリスクは限られていて、想定外は必ずある。このことを理解しないまま、「ただただ不安への対応だけを追求するのは危機管理としてどうなのか」ということを問題提起したのが、この報告書なのかなと思います。