イスラム的な「都市化の反力」はどこに向かう? 「境目の国」アフガニスタンを考える
移動の生活様式
この国は山岳地帯が多くを占める。南西部の平地は高温の砂漠であるが、山岳地帯は亜寒帯に属するところもあり温度差が激しい。水を活用するのが難しく、その意味で、長いあいだ医療活動と用水路建設に取り組み、2019年凶弾に倒れた中村哲医師の活動は貴重なものであった。 この地域(中央アジアから中東にかけて)の素朴な住居の様式は、日干し煉瓦式構法とともに、テント(皮膜)式構法である。日干し煉瓦式は乾燥暑熱の風土に、テント式は草原と砂漠の風土に分布するものだ。 テントというと特殊なようだが、都市文明の中心地から離れた地域に幅広く分布していて、大きく三つのタイプがある。中央アジアの遊牧民は蛇腹の骨組みを皮膜で「包む」中国語でパオ(包)と呼ばれるタイプに、中東のアラブ遊牧民は何本かの竿を建てその頂部と地面に皮膜を「張る」タイプに、北米先住民は円錐形の木骨に皮膜を「巻く」ティピー(ウィグワムと呼ばれる小屋のようなものもある)と呼ばれるタイプに、それぞれ移動しながら住む。 中国から、モンゴル、中央アジアを経てトルコまでは「包む」タイプである。しかしアフガニスタンは「張る」タイプが多く、その意味では文化的に中央アジアより中東(アラブ遊牧民型)に属することを示している。いずれにしろテント式住居は、移動性の生活が前提で、中央アジアでは「遊牧」が、中東地域では「隊商」が、北米では「狩猟」が主である。ちなみに、中央アジアにおいても、北米においても、このような馬やラクダで移動する昔からの生活様式に決定的なダメージを与えたのは、大量移動の文明としての鉄道だといわれている。
「ユーラシアの帯」史観
風土に生きた人間はやがて、自然風土を少し離れた高度で複雑な建築様式をつくりだす。宗教建築や宮殿の様式である。 しかしそういった高度で複雑な建築様式の分布は、16世紀以後にヨーロッパ人が外洋を越えて拡大したものを別にすると、ユーラシア大陸西端のイギリスから、ヨーロッパ、アフリカ北岸、中東、インド、東南アジア、中国、朝鮮半島を経て、東端の日本までの、細い帯状の地域に集中している。 これまでにも書いてきたように、僕はこれを「ユーラシアの帯」と呼んでいて、世界の国々の文化文明の歴史と現在は、この「ユーラシアの帯との地理関係によって決定的となる」と考えている。いわば「ユーラシアの帯」史観だ。 この帯には古来いくつか文明が存在したが、帯の西側に「地中海」という大きな文明の磁場があり、古くメソポタミア、エジプトの文明から、ギリシャ、ローマ、さらに周辺のペルシャやインドの文明までを巻き込んでダイナミックに拡大発展し、次第にその中心を「西欧」に移していった。いわば「大きな文化圏」である。一方、帯の東側には中国の中原を中心とする「小さな文化圏」が存在する。西側の「大きな文化圏」は、アルファベットと石造あるいはタイル煉瓦造の宗教建築を特徴とするに対して、東側の「小さな文化圏」は、漢字と木造の宗教建築を特徴とする。 中央アジアはこれらの文化圏の中心からやや離れた緩衝地帯であるが、アフガニスタンの宗教様式は、もちろんイスラム様式で、イラン(ペルシャ)に近い。つまり西の「大きな文化圏」の先端が東の「小さな文化圏(中国)」に突き刺さるように接する格好だ。 しかし近年、小さな文化圏の中心である中国の共産党政権は大きな文化圏で発達した近代文明の先端力を獲得しているのに対し、大きな文化圏に含まれるはずのアフガニスタンのタリバン政権は武器以外の先端力を手にしていないように見える。