東京オリンピックに考える 「バブルを知らない世代」による「個人的挑戦」の時代へ
コロナ禍で開催を巡って賛否が分かれた東京オリンピックが終了しました。一部を除いて無観客となりましたが、出場したアスリートたちの姿をテレビなどで見て、心を動かされた人も少なくないのではないでしょうか。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、アスリートたちが「『個人として』挑戦している」と感じ、そこに時代の変化を見たようです。若山氏が独自の視点から論じます。
メダルの数ではない
オリンピックで印象的だったのは、大野将平選手の連覇と、池江璃花子選手の決勝進出と、内村航平選手の落下であった。 大野の古武士のような風貌と振る舞いと技のキレに、久しぶりに日本男児らしい姿を見た。池江はメダルには届かなかったが、難病を克服し選手として復帰しただけでも素晴らしい。しかもオリンピックに出場しリレーとはいえ決勝まで残ったのだから驚くべきことだ。そしてキングと呼ばれた内村の落下は、橋本大輝へと受け継がれる時代の変化を感じさせた。ちょっとしたミスによる点数の差ではなく「落下」というのが潔い。「土下座して謝りたい」といった。 知らない世界の扉が開いたように思えたのはスケートボードである。街で若者たちが興じている姿は珍しくないが、オリンピックという場での彼らのパフォーマンスには新鮮さがあった。まず年齢が若い。そして屈託がない。メダルにこだわらずライバルの成功をたたえあっている。彼らには国家も民族もなく、スケボーの「仲間」があるだけだ。 サッカー日本代表のメンバーの多くは欧州のクラブに所属している。陸上競技もテニスもラグビーもバスケットボールも日本選手は多様化している。いずれにしろ若者たちは、よく戦っている。「国家として」というより「個人として」挑戦している。 しかしながらテレビはあいかわらず日本という国がとったメダルの数を真っ先に報道する。炎天下に走ったあとの選手へのインタビューには敬意と思いやりが感じられない。少し時間を置いてからでもいいのではないか。「アスリートファースト」と叫んでいたが、実は「視聴率ファースト」であった。