ドーハの悲劇から31年 今だから話せること、森保監督 元代表コーチ、清雲栄純さん 令和人国記
ヤンマーのフォワードだった釜本さんをマークする役。私は足を蹴ったり、空中戦で頭をぶつけてしまい、「ふざけんな」みたいな雰囲気になり、釜本さんは5分ぐらいで引っ込んだんですよ。それがテストだったんです。私が古河に入るきっかけですね。
■人気のなかった日本代表戦
古河に入ると、コーチの宮本征勝さん(元鹿島アントラーズ監督)から徹底して鍛えられましたね。それこそマンツーマンで。ヘディングのタイミングの取り方、キックの仕方。キックをまったくできなかったので、集合時間の30分前にはグラウンドに行き練習しました。当時は午前中は仕事をやって、午後から練習。土日が試合でした。
入社から1年が経った頃、日本代表メンバーに選ばれるようになった。最初は若いメンバー主体の代表だったんですが、そのうち、フル代表に選ばれるようになった。当時は、釜本さん、森(孝慈)さん、横山(謙三)さんとかすごいメンバーがいました。大宮サッカー場で、イギリスのアマチュアチームとやったのがデビュー戦です。当時は日本代表の試合といっても、観衆はほとんど入りませんでした。代表の試合で、いろんな国を回りました。当時はイスラエルもアジア枠で、イスラエルに2度行ったことがあります。
1975年1月、西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが来日して、日本代表が国立競技場で2試合やってんですが、それぐらいかなあ。満員になったのは。長沼(健)さん(後の日本サッカー協会会長)が監督のときで、相手のメンバーには(フランツ・)ベッケンバウアーとかゲルト・ミュラーがいました。
32歳で現役をリタイアするんですけど、お寺を継ぐために、山梨県の実家に帰らなければならない。檀家の皆さんからは「どうなっているんだ」という声が出ていて、おやじは「もうじき、帰ってきます」みたいなことを言っていたようです。古河の監督だった川淵さんがおやじに「指導者として残ってもらいたい」というような話をしてくださいました。今は親戚の方が寺を継いでくれています。