ドーハの悲劇から31年 今だから話せること、森保監督 元代表コーチ、清雲栄純さん 令和人国記
古河電工の監督だった86年、アジアクラブ選手権で優勝したのは最高の思い出ですね。当時は、古河にすごい選手がいた。奥寺(康彦)が西ドイツから帰って来たときで、岡田(武史、元日本代表監督)もいました。アジアクラブ選手権と天皇杯全日本選手権の日程が重なって、選手たちと、どちらを選ぶか話をしました。皆に聞くと、「アジアクラブ選手権に行きたい」とのこと。最終的には、古河電工の社長のところに行き、了承してもらいました。周囲からは「天皇杯を蹴っていくのはどうなのか」と、ものすごく言われましたが。
■現実的なW杯優勝
「ドーハの悲劇」のメンバーだった森保一が現在、日本代表監督。当時は想像できなかったですね。
オフトさんが、ピックアップ(選出)した選手です。他の選手にとってよく知らない選手みたいでした。他の監督なら(森保を)選んでないですね。でも、当時から森保は学ぶ姿勢は超一流でした。納得できないことは、ラモス(瑠偉)、柱谷(哲二)、井原(正巳)らと、とことん話をしてましたね。それは、ものすごくよく印象に残っています。
オフトさんは今でも2年に1度ぐらい来日するんですが、その際、当時のメンバーに声をかけるんですよ。すぐに12~13人ぐらい集まりますね。J1名古屋グランパス監督の長谷川や柏レイソル監督(今季限りで退任)の井原らも試合の翌日で疲れていても来てくれます。いろんな話をしますが、結局、当時のことを思い出すんでしょうね。ドーハでの試合の話になりますが、今でもあまりに話したくないこともあるようです。
「W杯優勝」なんて、昔だったら夢の話でしたが、今では現実的な話になりましたよね。「ドイツに学べ」だったのが、今はドイツが日本のサッカーを学ぶ立場。ドーハのときの連中がまいた種が、成長してきて、刈り取るときがいつになるか。楽しみです。
(聞き手 江目智則)
◇
きよくも・えいじゅん 昭和25年、山梨県塩山市(現・甲州市)生まれ。日川高、法政大卒。古河電工に入社し、サッカー選手として活躍、日本代表として、国際Aマッチ42試合に出場。引退後は古河電工監督に就任、日本初のアジアクラブ選手権優勝に導いた。その後、日本代表コーチ、Jリーグのジェフユナイテッド市原監督、大宮アルディージャのゼネラルマネジャー(GM)などを歴任し、法政大スポーツ健康学部教授も務めた。