ドーハの悲劇から31年 今だから話せること、森保監督 元代表コーチ、清雲栄純さん 令和人国記
日川高校へ進みましたが、自宅から塩山駅まで行き、国鉄(現JR)中央線で山梨市駅へ。自転車を借りて、学校に通ってました。自転車置き場は、林真理子さん(作家、日本大理事長)の実家の本屋さんのすぐ近く。彼女も、日川高校に進んだんですが、私が卒業してから入学したんですね。日川高では友達を誘ってサッカー部に入りました。ボールをうまく蹴ったり、止めたり、ドリブルができませんでしたが、監督の深沢孟雄先生(ヴァンフォーレ甲府社長などを歴任)は、海外のサッカーの本を取り寄せて研究し、指導も、ものすごく熱心でした。
私は身長180センチと大きかったのでゴールキーパーをやれ、といわれたんですが、すり傷がすごく、「フィールドやりたい」と頼んだら、センターバックをやることになりました。空中戦でのタイミングの取り方が、ものすごく難しいんですよね。ひもにつるされたボールで、ヘディングの練習をしました。
■ラグビーとの二刀流
高校では、クラス対抗でラグビーの試合をよくやっていたんです。教員チームもあった。私は足が速かったから、よくトライしたんですが、3年のとき、ラグビー部の監督から誘われたんです。両方の部で練習することになりましたが、サッカーは予選で早く負けちゃって、大会がだぶることがなかった。ラグビー部では右ウイングを任されました。左ウイングだったのが、日本体育大に進み、後に日本代表になった有賀(あるが)健です。2人で、トライを量産し、花園ラグビー場(大阪府)で行われた全国高校大会ではベスト8まで進みました。
同級生には鶴田友美、後のプロレスラー、ジャンボ鶴田がいました。バスケットボール部で世界を目指していて、私もすごく刺激を受けたんですね。後に冒険家になった風間深志(しんじ)らもいました。部活が終わると、皆、腹が減っていて校門前の松陽軒(菓子店)でお菓子などを食べながらいろんなことを話しました。
法政大でもサッカー部に入ったんですが、ラグビー部監督が寮に来て、「ラグビーもう一回やりませんか?」って誘われました。が、もう完全にサッカーの道を選んだので迷いはありませんでした。当時の法政のサッカーはそんなに強くはなく、まだ関東大学リーグ1部に上がったばかり。私は卒業後、家に帰ってお寺を継ぐつもりでした。キャプテンだったので練習メニューを教えてもらうため、(日本サッカー)協会に行ったところ、応対してくれたのが八重樫(茂生)さん。当時、強化か普及育成担当だったのかな。川崎市のグラウンドに3日間、指導に来てくれることに。そのとき「まだサッカー続けるつもりあるの?」と聞かれたんです。「できたらやりたいんですけど。寺も継がなきゃいけないし」という話をしたら「じゃあ、古河電工監督の川淵(三郎)に話しておくから」と言われ、後日、千葉市の検見川グラウンドに行くことになりました。その日は、古河とヤンマーディーゼルの練習試合。古河の川淵監督が「これからメンバーを発表する」と言ったんですが、そこに私の名前が入っていて、古河の一員として私が試合に出ることになったんです。