ドーハの悲劇から31年 今だから話せること、森保監督 元代表コーチ、清雲栄純さん 令和人国記
■アメリカまで残り45分
最終予選では最終戦でイラクに勝てば、W杯出場のところまで行きました。早い時間に、長谷川(健太)のシュートがクロスバーに当たって、カズ(三浦知良)がゴールを決めた。1-0でリードしたハーフタイム。ロッカールームでオフトさんがボードに「USA 45ミニッツ」と書いたんです。「W杯米国大会まで45分」という意味なんですけど、それが良くなかったですよ。(それで興奮した選手が)皆、しゃべり出しちゃったんです。ベンチからは、ラインを上げるように指示をしたんですが、伝わり切れなかった。
《その後、イラクと日本が1点ずつを取り合い、日本が2-1とリードして、ロスタイムに入った》
最後、(相手の)コーナーキックに対して、誰も動かなかったですね。2-2の同点に追いつかれたときは、それはショックでした。(ゴールキーパー松永)成立(しげたつ)をおぶってバスに乗ったのは覚えてますね。動けなかった。アイツの責任じゃないけど、ものすごく責任を感じていました。他の選手に聞いても、試合後のことは、ほとんど覚えてないですね。夜には表彰式があって、何人かが選ばれたんですけど、出席できる状態ではなかった。
今でも、よく覚えているし、成立とはよく話をしますね。大きな教訓になったけど、それが、今、日本代表に生きています。間違いなく、生きています。
■東京五輪でサッカーに興味
山梨県塩山市(現・甲州市)で生まれました。山梨県出身のサッカー選手といえば、中田英(英寿、イタリア・ローマなどでプレー)ですね。
以前は、山梨で強い高校は(中田の出身校)韮崎ぐらいしかなかった。中田の実家は甲府市にあって、私がジェフユナイテッド市原(現市原・千葉)の監督だったときに、勧誘に行ったことがあるんです。お母さんや高校の監督とも話をしました。
私の実家は「福蔵院」というお寺で、私が長男で妹と2人きょうだい。跡を継がなくちゃいけなかった。中学は野球部。実家の山寺から学校まで山道を3~4キロの通学で足腰が鍛えられました。昭和39年、中学2年のとき、東京オリンピックを見て、サッカーという競技を知りました。釜本(邦茂)さんは、ものすごく印象深かったですよね。