持病の87歳夫を看取った82歳末期がん妻が念願叶って「同日」に他界…看取り医「佳代子さん、やるな」と呟いた訳
■人生の最期ぐらいわがままになっていい 2002年4月、私は茨城県つくば市内で、訪問医療に特化したクリニック「ホームオン・クリニックつくば」を開業しました。それ以来、主に診てきたのは在宅療養中の高齢者、末期のがん患者、その他の病気の終末期を迎えた患者たちです。つまり、人生の残り時間がわずかな人たちばかりでした。 他の一般的な医者と比較して、私は大勢の患者の死に立ち会ってきました。病院などの紹介だったり、自ら訪ねてこられたり、開業してから看取った患者は3200人以上。だから、私は「看取りの医者」を自称しているのです。 また、在宅で死を迎えると、時には不審死が疑われ、警察沙汰になって司法解剖が行われることもあります。そうならないためには医者の死亡診断書が必要であり、私は「自然死鑑定人」を名乗ることもあるのです。 そうやって多くの人の最期を目の当たりにしてきた私には、確信めいたものがあります。それは、人生の最終盤を、思うがままに生きて死んでいくことで、その人の命は輝きを増すようになるということです。仏教の世界には「灯滅せんとして光を増す」という言葉があって、そうした最期の生き様に見事に当てはまります。 とはいえ、そうすることは周囲の人の目には「わがまま」と映るかもしれません。誰かの世話になっている人たちばかりであり、好き勝手な振る舞いをすれば、手を貸してくれている誰かの手を煩わせることになります。だから、意に反して行儀よく立ち振る舞い、慎ましく生きようとします。 そのような姿を見て、ふと思うのです。自分の「命」が自分のものであるのであれば、自分の「死」も当然、自分のものではないかと。そうであるならば、残りわずかとなった短い時間くらい、心の赴くまま、わがままに生きて死んでいくことの、何が悪いのでしょうか。 人の最期は、生を燃やし尽くす瞬間です。看取った方々のなかには、倫(みち)ならぬ恋に溺れた人がいたかと思うと、酒にのまれる人、蓄えを使い果たした人たちもいました。皆さん、わがままに、好きな場所で、満足しながら生を燃やし尽くしていったのです。 では、私が看取った人たちは、どのように「本当にやりたいこと」を見つけ、わがままを貫いていったのでしょう。3つの事例をご紹介します。