「もう終わりだ」 順調な日に一瞬にして襲いかかったプーチンの恐ろしい毒牙
※本記事は『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』(アレクセイ・ナワリヌイ著、斎藤栄一郎・星薫子訳)の抜粋です。 【画像】『PATRIOT プーチンを追い詰めた男 最後の手記』
異常事態
例の客室乗務員のお目こぼしのおかげで、おかしな事態の発生の瞬間を正確に思い出すことができる。あれから18日間も昏睡状態が続き、集中治療室で26日間を過ごし、入院は34日間に達したわけだが、今思えば、確かPCを取り出す前にまず手袋をして、アルコールで拭き取ってから画面を開き、例のアニメ番組が21分経過した瞬間である。 離陸時のお楽しみである『リック・アンド・モーティ』の視聴を放棄するくらいだから、よほどのただならぬ事態が発生したわけだ。乱気流くらいであきらめる私ではないのだが、画面を凝視しても集中できない。冷や汗が額を伝う。とんでもなくおかしなことが起こっている。もはやPCを開いていられない。額を流れる冷や汗はさらに増えていく。 あまりの事態に、左隣のキーラにティッシュをくれないかと伝えた。キーラは電子書籍から目を離すこともなく、バッグから取り出したポケットティッシュをよこす。1枚出して、汗を拭う。もう1枚。どう考えても、何かおかしい。経験したことのない異常事態だ。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。どこかが痛むわけではない。自分自身が崩壊していくような異様な感覚なのだ。 離陸時に画面を見ていたから、飛行機酔いかと考えた。確信が持てないままキーラに言った。「何かおかしいんだ。ちょっと私に話しかけてくれないか。ちゃんと声が聞こえるか確認したい」 奇妙な依頼だ。キーラは一瞬驚いた様子だったが、読みかけの本の内容について話し始めた。話していることは理解できる。だが、なぜか体力を使うのだ。刻一刻と集中力が衰えていく。 数分後には、キーラの唇が動いているのを見ているだけの状態になった。音は聞こえるのだが、言っていることが理解できない。後でキーラから聞いた話では、「うんうん」とか「なるほど」などと相槌を打ちながら5分ほど持ちこたえ、ときには内容について聞き返すこともあったそうだ。 飲み物のカートを押す客室乗務員の姿が目に入った。水をもらうかどうか考えていた。キーラによると、乗務員は私の返事を待っていたそうだ。私は黙ったまま乗務員を10秒ほど見つめていた。ついにキーラも乗務員も様子がおかしいと察したのだ。私は「ちょっと席を外したい」と伝えた。 トイレに行って冷たい水で顔を洗えば、少しはすっきりすると思ったのだ。キーラは、通路側席で眠っていたイリヤを起こし、私を通してくれた。スニーカーも履かず、靴下のままだった。スニーカーを履く気力もなかったわけではない。単に履く気にならず、これでいいと思ったのである。 幸い、トイレは空いていた。一つひとつの行動を振り返る必要があるのだが、ふだんはそんなことを気にしていない。当時、何が起こっていて、その後、何をしようとしていたのか。今になって意識的に努力して把握しなければならない。 ここはトイレ。鍵がどこかにあるはずだ。いろいろな色のものが目に入る。これがおそらく鍵なのだろう。そいつをスライドさせる。いや、そうじゃない。よし、ここに蛇口がある。押せばいいのか。どうすりゃ押せるんだ? 手を使うんだった。手はどこだ。手はある。水だ。顔を洗うんだった。 頭の中には、ただ一つの思いしかない。何の苦労も必要としないことしか思い浮かばず、ほかのことはすべてかき消されてしまう。もう我慢の限界だ。顔を洗い、トイレに腰掛ける。そして初めて自覚した。もう終わりだ。