ウクライナ戦争で浮かび上がる「黒海」 遊牧民と帝国が交錯する歴史と日本
中央アジアのノマドへのまなざし
明治維新以来、われわれは知らず知らずのうちに西からの目で世界を見ている。日本の大学はおしなべて西洋の学問を正課とし、古代はヘロドトス、中世はマルコポーロ、近代はヘーゲルなど、日本と中国を除く世界の歴史と地理と物語が「西洋からのまなざし」で構成されてきたからだ。 ウクライナ戦争の報道も同様で、日本は、少なくとも思想的社会的な意味では、西側の一員であるという事実を、否応なく認識させられている。 しかし司馬遼太郎さんは違った。前にも書いたように、彼は常に東からの、というより中央アジアの遊牧民のまなざしでこの地域を見ていた。学校でモンゴル語を専攻した彼の文体の情緒は、遊牧民に寄り添いがちで、この地域を支配する帝国としてのロシアや革命後の中国に対する反感のようなものを吐露するのだ。 遊牧民(ノマド)とは「移動居住する人々」であり、本来、都市とか国家とかになじまない気質の集団であり文化である。歴史上、彼らを抑えつけて法の管理下に置こうとする勢力は、常に力ずくの帝国として立ち現れた。
なぜ「黒い海か」
さて僕のよくいく図書館で『黒海の歴史-ユーラシア地政学の要諦における文明世界』(原題『The Black Sea : A History』(チャールズ・キング著、前田弘毅他訳、明石書店2017刊、Charles King 2004刊)という本を見つけた。著者はアメリカ人であるが、政治的な色彩を排除したきわめて客観的な歴史書である。とはいえ、史料が西側に偏っているのはやむをえないところだ。 まず興味深いのは「黒い海」という名前の由来である。いろいろと説はあり、日本では海水の色が黒いからというのが通説のようだが、どうもスッキリしない。この書によれば、黒海と呼ばれるようになったのはオスマン帝国が成立したころで、この帝国のテュルク(突厥)系の支配者は、中国古来の、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武という世界観の影響を受けて、北の海を「黒(玄)い海」と呼んだということである。ちなみに西の地中海は「白い海」と呼んだそうだ。 中国の世界観が遊牧民族の移動をつうじて西洋ともいうべき地域に影響を及ぼしているのが面白い。もちろんこの世界観は日本にも影響を及ぼし、平城京や平安京の構造もこれを踏襲している。 15世紀末から16世紀にかけてスペインやポルトガルによって外洋航路が「発見(ヨーロッパ人にとっての)」される前、中央アジアの遊牧民は、ユーラシアの帯における東西文化交流の重要な担い手であった。