ウクライナ戦争で浮かび上がる「黒海」 遊牧民と帝国が交錯する歴史と日本
16世紀以後に出現した「北からの帝国」
歴史をつうじて、黒海の南はいくつかの帝国の興亡があり、北はさまざまな遊牧民が移動しながら生活するステップ(草原)であった。遊牧民はスキタイと呼ばれ、一つの民族というよりこの地域の遊牧民を総称したようだ。 初めに黒海の南から登場した帝国はペルシャ帝国(キュロス2世によるアケメネス朝)であったが、この海に関する最初の記述(少なくともこの本の著者にとって)は、ヘロドトスなど古代ギリシャ人によるものだ。ギリシャ人は黒海の西方に植民都市を築き、あるいは流刑地として使用した。黒海の沿岸に生きるスキタイの奇妙(野蛮)な風習を記している。 古代ローマにとっても、初めのうち黒海は化外(文明の外側)の地であった。しかし帝国として拡大するにしたがって、黒海は文明の外側から周縁となり、コンスタンチヌス帝が今のイスタンブールに都を移したあと、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が成立すると、黒海は危険に満ちてはいるが、文明の中心部に隣接する地域となったのだ。そしてローマ帝国衰退のあと、黒海の南側に登場したのはイスラム帝国(ウマイヤ朝、アッバース朝)である。 歴史上ここまでの帝国は、ほぼ黒海の南から支配力を及ぼしたに過ぎず、黒海の北岸には、ハザール、ルーシ、ブルガール、テュルク(突厥)、タタール(韃靼)など、遊牧民が跋扈していた。ここでハザールというのはハザクでもあり、カザフでもあり、コサックでもあるが、もともとは国家権力に従わない者の意味である。その黒海北岸に広がる悠遠なステップを、遊牧民自身が支配したのがモンゴル帝国で、わずかな期間にユーラシアの東西にわたる大帝国を築きあげた。 そのあと、東方の遊牧民から現れたテュルクの一族が、黒海ばかりでなく地中海周辺までを支配する帝国となったのが、オスマン帝国である。現在のトルコであり、かつてはオスマン・トルコと呼ばれていたが、多様な民族で構成されていたことから、現在では単にオスマン帝国とされている。 チャールズ・キングの筆は、黒海北岸のステップの遊牧民がオスマン帝国に売られていく様子(白人奴隷が有色人の帝国に売られる)を記している。「女性たちはむしろオスマンのハーレムを志向した」「オスマン帝国における奴隷は、しばしば生きるために前向きな隷属状態である」「オスマンの習慣では、奴隷が賃金を得ることが可能であり、支払いによって自らを解放することも許されていた」など、奴隷になることに自発的な意志がはたらいていたことを強調している。 そして次に中央アジアのステップを支配していくのは北から現れて帝国化したロシア(モスクワ大公国)という国家である。16世紀のイヴァン雷帝から18世紀のピョートル大帝の時代まで、ちょうど西ヨーロッパ人が外海を征する時期に、ロシア人は中央アジアの草原を征したのである。当然、ロシア帝国とオスマン帝国との衝突が起こり、両帝国は長期にわたる交戦状態に突入する。それが露土戦争である。黒海の支配権は次第にオスマンからロシアに移行する。キングの筆は、女帝エカチェリーナ2世のクリミア巡行が、サンクトペテルブルグの宮廷をそのままもちこむような華美なものであったことに触れている。 つまり黒海周辺に初めて、北からの帝国が出現したのだ。ロシアという国は、ヨーロッパに対してはアジア的な情念の文化として、アジアに対してはヨーロッパ的な支配の文明として現れる。そしてそう考えてくると、黒海こそは、ユーラシアの帯における、東西南北の帝国がその境界線としたランドマークであった。