震災ボランティアから「ヨソモノ・ワカモノ」議員へ――新市議たちが見つめる石巻の未来 #知り続ける
「まさに、地殻変動」――。市民のひとりはこう表現する。5月22日に投開票された宮城県石巻市議会議員選挙で、震災ボランティアとして石巻を訪れ、その後移住した新人候補3人が当選した。いずれも震災当時20~30代、今回の立候補者のなかで最も若い3人だ。強固な地縁・血縁社会と言われる地方都市で「ヨソモノ・ワカモノ」が激しい選挙戦を勝ち抜き、市政を担う。震災から11年を経た最大被災地は、いま新たな歩みを始めている。(取材・文:ノンフィクションライター・川口穣/撮影:鈴木省一/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
固唾をのんで開票速報を見守っていた原田豊(42)の頬が緩んだのは、5月22日から23日へと日付が変わったときだった。開票率91%を超え、原田はようやく宮城県石巻市議会議員選挙での当選を確信した。 支援者一人ひとりと固く抱き合い、ダルマに目を入れた。 当選を振り返り、万感をこめて言う。 「親戚もいない、同級生もいない。大企業や政治家の後ろ盾もないなかで後援会の仲間だけが頼りの厳しい選挙戦でした。でも、30代、40代の仲間と共に当選を勝ち取れたことは、とても大きな意味を持つと思っています」
原田は東日本大震災後に石巻へやってきた移住者だ。 震災当時31歳。東京で中古車販売と自動車整備業を個人で営んでいた。津波の映像を見て、「吸い寄せられるように」石巻行きを決めた。トヨタのバンにありったけの物資を積み込んで石巻へ向かったのは2011年4月1日のことだった。 当初は個人ボランティアだったが、数日後には現地で出会った数人の仲間とチームを結成する。団体として災害ボランティアセンターに登録し、継続して同じ地区の作業を担うことにしたのだ。そのほうが班分けや準備に時間が取られず、翌日への引き継ぎもスムーズになる。 やがて原田は「アモール石巻」と名づけたこのチームのリーダーになり、地区内のニーズ(ボランティア活動の要望)約4000件を一手に引き受けることになる。 原田自身も当初の予定は2週間のボランティア。だが、4000件のニーズ票を見たとき、持ち前の負けん気が顔を出した。 「あまりの量に仲間の心が折れかけていました。ついハッタリで『俺がいるから大丈夫、全部やるぞ』と言ってしまった。それで覚悟が決まりました」 企業ボランティアの受け入れも担い、常時200人程度、多いときで650人が活動する大規模なチームとなった。 原田をよく知る知人は、原田の人となりをこう評する。 「発想力と、それを実現する勢いや周りを巻き込む力がある人。気がつけば人が集まっている。一緒に何かしたくなる人だと思います」 4000件超のニーズは11年9月に完了し、アモール石巻はじき解散した。だが、このときに作業した大街道(おおかいどう)地区はその後、原田が11年にわたって活動し、生活を営む場となった。 「このあたりは被災した自宅の2階で生活する在宅避難者が多かった。自宅のほうが楽、空き巣が不安……など理由は様々ですが、避難所へ行けば集まる物資や情報が手に入らない。自分が力になれるなら、5年はここで頑張ってみようと決めました」