『虎に翼』の家族とジェンダーから見えるもの。家制度の亡霊と、「いま」を描く物語(評:竹田恵子)
「家族」を描くドラマとして
まさか、自分が朝ドラを毎日観見るようになるとは思わなかった。でも面白いから見てしまう、NHKプラスで。みなさんも、ですよね。 みなさんもご存じのとおり、2024年4月から朝の連続テレビ小説として放映されている『虎に翼』は、日本では最初の女性弁護士のひとりをモデルにした猪爪(佐田)寅子(ともこ)の物語である。 このドラマをフェミニズムに関係ない、という人はいないと思う。法律、憲法、人権といった多様な視点から語ることができるから、私よりよほどうまく語れる人はいくらでもいると思う。ただ、私はこの物語がもっとも中心的に描こうとしているものとして「法」のほかに「家族」があるのではないかと思う。だがその前に、少し本ドラマの根底にある姿勢のようなものについて書いてみたい。
見えないことにされてきたもの
ドラマを見始めたときにまず思ったのは、このドラマは男性を敵とするものではなく、一部のエリート女性のみを称揚するものでもない、ということだ。この物語は、見えないことにされている人たちやなかったことにされている苦しみを描いてきた。 たとえば寅子たちが法律を学ぶ大学の同窓の女性たちには朝鮮人留学生(崔香淑)、華族の一人娘(桜川涼子)、弁護士の妻(大庭梅子)、貧困のうちに育ち、家族に売られそうになって逃げてきた男装の女性(山田よね)がいる。一見恵まれた立場の者にもその人なりの地獄があり、苦しみがあることが丁寧に示されている。また、寅子の親友で兄嫁となった花江は、作劇上、重要な役割を果たす。 寅子は家族に恵まれ、優秀で積極的だが、生理が重く4日は寝込む。涼子は一人娘で、家を継ぐためには結婚しなければならない。何もかもに完璧を求められ、酒に溺れる母親から逃げられない。香淑はおそらく朝鮮では上流階級だが、日本では差別があるなか、留学生として頑張っている。梅子は弁護士の妻で3人の息子がおり、金銭的には何不自由ないように見える。しかし夫や息子、姑に虐げられていることがわかる。 私が好きなのは第3週第14話~第15話だ。山田よねは、壮絶な生い立ちから「戦おうとしない女」がどうしても甘く見えたのだろう。「恵まれたおめでたいアンタらも大概だが、戦いもせず現状に甘んじるやつらはもっと愚かだ」と言う。そこへ寅子が「いくらよねさんが戦ってきて立派でも、戦わない女性たち、戦えない女性たちを愚かなんて言葉でくくって終わらせちゃ駄目」と返し、「みんなつらいなら、私はむしろ弱音、吐くべきだと思う」と話す。それからよねには「そのまま嫌なかんじ」でいるように、と言うのが良い。いくら恵まれていて優秀でも、弱音を吐くしつらいこともあるという部分が可視化されるだけでなく、怒っている人に対してトーンポリシング的に「もっと感じよく」などと言わないところが良いと思う。 男性も一枚岩ではない。絵に描いたような保守主義者もいれば、寅子を優しく力づける猪爪家の書生で、のちに夫となる優三もいる。寅子の級友である花岡は、当初は「尊敬すべき女性」と「尊敬しない女性」を分けて、後者を見下した態度を取っていたが、のちに改心する。 寅子を明律大学女子部に誘い、法の道を薦めた穂高教授は、一見リベラリストでやっていることは立派だ。しかし寅子が妊娠し仕事との両立で悩んでいたときには、妊娠の事実を上司に話してしまい、寅子に弁護士を辞めるように言い、寅子を怒らせてしまう。穂高のような態度は、家父長的温情主義と訳される、パターナリズム、平たく言えば「大きなお世話」である。それでも穂高は寅子の尊敬すべき師匠で「根っからの嫌なやつ」のようには描かれない。当たり前だが人は多面的なのだ。 さらに、男性に課せられた「男らしさ」の荷を降ろさせる展開もある。寅子の弟は本当は勉強が好きなのに、男だから家族のために働こうと思い詰めていた。しかし寅子に勉学の道に戻るよう薦められる。(この後の展開にも触れたいし、男性性についてはもっと書きたいが別稿に譲る)