『虎に翼』の家族とジェンダーから見えるもの。家制度の亡霊と、「いま」を描く物語(評:竹田恵子)
社会の構造、家族
本当はAをしたいがBを選なければならず苦しむ人がいるのは「構造」の問題であり、この「構造」に苦しんでいるのは一部の女性だけではない。ここで構造というのは、結果として作りあげられてしまった大きな社会のシステムのことを言う。構造のなかのどこに位置づけられるかによって見える世界に限界もあるが、広い視野を獲得しようと努力することはできる。 若くして結婚することが女の幸せといわれた時代に目一杯働きたかった寅子の物語は、「家族」と「仕事」を往還し、「家庭裁判所」へと舞台が移っていく。 私が言う「構造」、これをもっとも身近に体現しているシステム(制度)が「家族」である。 私は、『虎に翼』の第1週、寅子が母たちの「スン」、つまり賢く、家庭内ではあれほどの裁量を持ち、準備を進めてきた母たちが、結婚式などの公の場面ではそんなことはなかったかのように父親たちを持ち上げて澄ましていることに怒りを抱いたという描写に参ってしまった。男女の役割分担ができているから良いという問題ではない。物語は明らかにそのようには描かれていない。これは見えないことにされている問題を抱える人たちの物語なのだから。大日本帝国憲法のもとで1898(明治31)年に制定された明治民法の「家族」には、年長の男性である「戸主」に家族のメンバーを統率する強い権限があった。これを「家制度」という。家の財産、家屋、土地や墓は戸主が所有し、妻は法律上、財産や親権を持つことができなかった。誰と結婚するか、どこに住むか、仕事を持つか、そういったことは戸主の許可なく自由にはできなかった。簡単にいえば、家のために個人がいるということになる。そしてこの戸主が持つ財産や家屋をすべて相続することができるのは長男だった。本妻でなく妾側に認知された男児がいた場合、本妻の娘ではなく妾の息子に譲られた(岩間ほか 2015)。
家制度の亡霊
第二次世界大戦後すべての国民の平等を掲げた日本国憲法ができた。それに伴い民法も男女平等になったのだから、安心だ、という話にはならない。第13週(2024年6月24日~6月28日)の放送では、寅子の級友で弁護士の妻、三児の母親であった梅子の夫の相続の問題が描かれる。当初、梅子の夫の愛人が相続を主張していたが、遺言書の偽造が発覚する。次に長男夫妻が父の財産のすべてを相続したいと主張するが、梅子の姑に当たる長男の祖母が、長男夫婦に老後の面倒を見てもらうのを嫌い、三男と梅子に世話をさせる代わりに多めの財産を相続させることを主張する。 梅子の息子たちや姑は好き勝手なことを言う。梅子に相続を放棄せよと迫り、梅子が改正民法に則り相続を放棄しないと宣言すると、姑の介護を押し付ける。そもそも、相続と介護はバーターではない。 この梅子の立場を「いまでも時々見るな」と思った人は多いのではないか。それには理由がある。 じつは日本は、1970年代終わりから「日本型福祉社会」という方向性で国内の福祉制度設計をしている。これは企業と家族で育児や家事などのケアを行え、という体制である。かなり大胆に分類すれば、政府諸国で福祉を担う北欧や、市場で福祉を担うアングロサクソン諸国とはまったく異なるものなのだ。この体制では、企業は稼ぎ主の男性の雇用を維持し、その男性を通じて家族を援助することで、家族の生活を安定させるという戦略を取る(大沢 2007;筒井 2015)。 そして、家族のなかでケアの役割を担ってきたのは主に女性である。主婦が大衆化して多数派になるのは、第二次世界大戦後の高度経済成長期だ。梅子や花江のような存在は高度経済成長期のサラリーマンを支えた、まさに賃金を支払われない労働(家事・育児・介護)の担い手であった。寅子は女性だが、まさに当時の(現在もか?)サラリーマンのように働きづめだ。寅子が男ならば「男だから仕方がない」となりかねないが、一家の大黒柱が女性であることで、見えない労働の理不尽さが目立つ構成になっているところが見事である。 梅子は自分を縛ってきた「民法第730条:直系血族及び同居の親族は、互いに扶(たす)け合わなければならない」を逆手に取り、息子たちに姑を任せて家族から自由になる。その梅子が花江に「良い母になんてならなくていい」「自分が幸せじゃなきゃ、誰も幸せになんてできないのよ、きっと」と励ます場面は象徴的だ。