「チャットGPT」が日本社会の病弊を断ち切る? 知的分野に与える影響を考える
ネット社会におけるレポート・論文の評価実態
この2、3年のコロナ禍におけるオンライン講義で経験した最大の問題点は、レポートでもテストでも成績をつけるのがむずかしいことだ。現在のようなネット社会では、たとえばウィキペディアなどを利用して必要な知識に簡単にたどりつけるので、同じように(ほぼ)正しい答案が提出される傾向にある。対面の講義に戻って、持ち込み禁止の教室内でテストの解答や小論文を書かせるなら、確実な差が出るのだから、チャットGPTの登場以前にも、今、マスコミで識者が論じている教育上の問題はすでに現れていたのである。 また、学会の論文集や博士論文の審査などは、きわめて専門的な内容であるから、審査要件はその専門性、すなわち調査や実験の厳密性、論理の妥当性、既往の研究との関係と結論の独創性などに焦点が当てられ、特に理系の場合、日本語としての文章の正しさはそれほど大きな問題とならない。 僕は30年以上にわたって、学術論文を指導し審査しつづけてきたが、実は日本の理系の学生の文章はかなりレベルが低い。卒業論文などはほとんど日本語になっていない場合もある。博士の学位請求論文でも、専門的にはいい研究をしていても、その狙いと結論のポイントを文章化しきれていないことが多い。しかし彼ら理系の学生は図表や数式は得意である。だからできるだけ文章は減らして、研究の過程で自分が実際に行ったことを箇条書きにすることを勧めていた。 それでも、調査や実験の条件設定がいい加減なものや、すでに研究され発表されている内容を繰り返したに過ぎないものや、研究者自身の論理演繹力が弱く自分でも何をやっているのか分からないような論文があとをたたない。特に近年は、高度なコンピュータープログラムに頼るので、データと解析結果のあいだのプロセスが可視化されず、論理の道筋が言語化できていないものが多いのだ。
もともと著作権には曖昧なところが…
自分でいうのも恥ずかしいが、僕の論文やエッセイはよく「ユニーク、独創的、数学の証明のよう、理系の説得力」などと評されてきた。引用されることも多く、朝日新聞社から出した『「家」と「やど」―建築からの文化論』(1995年刊)という本は「高校国語・現代文」の教科書にも掲載され、入試には何度も取り上げられている。 そしてよく、文章と内容を勝手に使われる。いわゆる「パクリ」というやつだ。有名な月刊誌に謝罪文を書いてもらったこともある。学会の論文などでも、その内容をギリギリ問題にならない程度にパクっているものがある。ある友人のジャーナリストは「若山さんの文章は新しい概念とキャッチフレーズが多くてパクリやすいのだ」と評した。 当然のことながら引用の事実を明記するべきであり、その記述がないものは厳しく罰せられるべきであるが、現実にはそうなっていないケースも多い。AIに関しても同様で、たとえばチャットGPTを使用したと明記すれば問題はないが、その記述がないものは、追求できるようにされるべきである。 もともと著作権とか、工業所有権とか、商標登録というものは、その侵害の判定がむずかしい。音楽や映像の保存再生がデジタルに変わったときも問題になったが、文章や図像を生成するAIの登場によって、知的所有権の問題はますますその扱いがむずかしくなっていくことはまちがいない。 つまり今、生成AIで指摘されているような、倫理や道徳や著作権や論文審査困難といった問題はすでに、しかも根深く、日本の知的社会に存在していたのである。