「チャットGPT」が日本社会の病弊を断ち切る? 知的分野に与える影響を考える
活力が枯渇ぎみの日本の知的組織
とはいえ、僕にも苦手な文章がある。行政に使われる文書は、読んでもよく理解できないものがあり、文科省などへの申請の文書をつくるのも苦手だ。官僚もしくは官僚を養成する大学の出身者はこれが得意なのだ。そういう文書は、言葉に書き手のたましいがこもっていないという点で、もともとAI的なのではないか。 日本の大学や研究所などの組織は、官僚機構によって統括されていることが多く、研究、開発、教育などの運営そのものがAI的(過去のデータの積み上げの中から最適解を導き出す)だといえないだろうか。明治維新以来、日本の大学と研究機関は、ヨーロッパの学問を基準に、旧帝国大学を頂点とする家元制度のようにピラミッド化されており、その内部の評価基準は、独創的であるかどうかということではなく、欠点がないかどうかということである。もっといえば、その時点における日本の専門分野における権威の常識に反していないかということである。学問の世界にも、いわゆる「忖度」が横行するのだ。 知的組織に限らず日本社会の仕組みは、集団で努力することによって性能と効率を上げることには向いているが、まったく新しいものをつくりだすことには向いていない。アメリカなどと比べて、個人的独創に対する評価が低すぎる。素晴らしい研究開発も、会社や研究所の利益にはなるが、個人の利益にはならず、せいぜい少し出世するか、社長や所長の名で感謝状と報奨金を与えられる程度である。 戦後しばらくは知的分野も実力主義であったが、時代を経るにしたがって、官僚化傾向が強くなっている。何事も形式と前例にしたがう江戸時代に逆行しているようにも思える。日本経済の長期凋落傾向の根本原因はここにあるのではないか。 最近(大学改革以後)は天下り先として大学にポストをえる官僚も多い。行政職と研究教育職の境が曖昧になっている。教授会を骨抜きにした(昔あった「大学の自治」という言葉は現在ほとんど死語である)のはそのためだったのかとかんぐりたくなる。逆に優秀な研究者が、複雑な管理業務や、当たり障りのない結論を出す無駄な委員会に忙殺されてしまうケースも多い。つまり日本の知的組織はすでに活力が枯渇ぎみなのだ。