「風土」と「文化」をめぐるジレンマ 中国の軍事的拡張を考える
開放と統制の矛盾とジレンマ
だいぶ前、日中建築学会の協力で、新疆ウイグル自治区のウルムチからトルファン周辺の風土的な住居建築を調査したことがある。そこは砂漠(低地)と草原(高地)の風土で、ウイグルだけでなく、カザフ、キルギス、ウズベク、トゥルクマンなど、多様な民族が遊牧生活を送っていて、建築も文化も中国中央部のそれとは大きく異なる印象を受けた。 問題は、現在の中国指導部がそういった風土と文化の違いをどのように認識しているか、あるいはその違いすなわち風土と文化の多様性を容認することができるかということだ。 最近の新疆ウイグル自治区に対するジェノサイドと批判されるような政策や、香港における一国二制度を無視するような政策は、こうした風土と文化の違いを無視して一つの価値観を押しつけているように見える。だがその価値観とは何か。植民地支配からの独立と革命の熱情も、前世紀にはそれなりの普遍性をもったマルクス主義という思想も、21世紀には輝きを失っている。人民解放軍はもはやその名が示す大義を有していないのだ。 最近の中国では、アメリカばかりでなく西洋(文明)そのものを批判し東洋(文明)を称揚しようとする傾向がある。その底流には長期にわたる西洋支配に対する東洋の怨念が蓄積しているのだ。それは日本にもあるが、日本が東洋主義を唱える場合は、中国はもちろん南北朝鮮も東南アジアもインドも含むのであるが、中国が東洋主義を唱える場合は、東洋=中国なのだ。世界はそこに違和と脅威を感じざるをえない。ウイグルの弾圧によってイスラム文化そのものを敵にまわすことになれば、「一帯一路」も孤立への道となるだろう。 人類には、国家という制度を超えて一人の人間の生命と尊厳を守ろうとする本能ともいうべき普遍的属性がある。それが人権であり人道である。そしてよほどの事情がない限り、現状の平和と安定を維持しようとする普遍的な力が働く。その「人類の普遍性」に抵触するなら、内政干渉という論理も制約を受けざるをえないのだ。 大国とは、風土と文化に対して、あるいは民族と宗教に対して、寛容であることを条件として成り立つものだ。トウ小平は、そのような異なる文化、異なる体制を可とする判断であったという。しかし習近平主席はそう考えていないようだ。今の中国にはトウ小平的な「開放」と習近平的な「統制」のジレンマがあるのではないか。毛沢東の『実践論・矛盾論』には「体制内に矛盾の存在を認め闘争につなげる」という彼の思想家としての側面がよく現れているが、現在の中国を予言しているようにも思える。 日本がなすべきことは、こういった中国の矛盾とジレンマに対し、できればG7=西側先進国、あるいは「ファイブ・アイズ」と呼ばれるアングロサクソン系の情報同盟などに偏らない、人類の普遍性にもとづく力を及ぼして、中国内部の力学を動かすことだろう。どんな物体でも、外力が作用すれば内部にそれなりの応力を生じるものである。 それは青臭い理想主義というようなものではない。戦いの歴史を振り返ると、長期的な勝利を収めるのは、単なる軍事力よりも、人類の普遍性を背負った風土と文化の力であることが多いからだ。 美しい島はいつまでも美しくあるべきだ。