<平安ファッション>男性が青、女性は赤の服を着ることが禁じられていた深い理由とは?位によって厳密な「禁色ルール」が貴族達の出世欲を掻き立てた
◆摂関期に色分けが減少した理由 一覧表にあるように、摂関期(900年代以降)に入ってから上位貴族の当色が黒(くろ)に変更されていく。 大きな理由の一つが、紫染めに使用する紫草(むらさき)の紫根(しこん)が染料として使用できるまで成長するのに最低でも4~5年かかり、着用者が増えて、紫根の栽培が追いつかなくなった。 やむなく黒を混ぜるようになり、結果として黒になっていった。 三位と四位の位色が統一されたのは、参議に命じられた場合は四位でも公卿となり、三位と四位を位色で分ける必要性が薄らいだためだとされる。 当時の貴族達が上位の位色の袍を着ることが増えたこと、つまり地道な出世よりも、もっと早く上位の大納言・中納言などの官職に移行していたためだとされる。 また、下級官位の区別の必要性が薄れた背景から六位以下の叙位が稀(まれ)になり、六位以下の位色は深縹(こきはなだ/藍染で最も深い色)に統一されたようだ。 階級制度は色だけでなく、袍など衣服の素材にも及んだ。五位以上で冬は表は綾で裏が平絹(ひらぎぬ)、夏は表が綾で裏はこめ織という薄物、六位以下は夏冬ともに無文のこめ織。 「綾」は斜めに糸が走っている絹生地、「平絹」は経緯(たてよこ)に糸が走っている絹生地、こめ織とは細い糸で硬く織った生地で紬の薄物の感じである。 束帯の下に付ける表袴が白、裏地は紅で三位以上には文様が許された。下袴の大口袴は表裏地とも紅で、束帯着用時は必ず着用しなければならなかった。
◆出世すると高まる自由度 これまで述べた位色は公服に対してのもので、私服であった直衣には同じ形であれど材質や色・紋様も自由だった。そのため直衣のことを「雑袍(ざっぽう)」と称した。 そして、「雑袍聴許(ちょうきょ/雑袍許し・直衣許し)」という直衣でも参内(さんだい)できる特別待遇が、天皇と姻戚関係にある者や関白・大臣クラスの一部の公卿には天皇から与えられた。 位色・素材他の規制がない自由な衣服である直衣での参内こそが特権階級の象徴で、「許し」を得られない階級の貴族達にとっては出世欲を掻き立てるものであったに違いない。 また、何とか天皇家と姻戚関係を結べないかと画策した者も多かったのではないか。ただし、何の規制もないといっても、髷(まげ)の露出は恥ずべきことだったので、冠を必ず被る冠直衣スタイルは守らなければならなかった。
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