今、直面している過激化した振り子とは? 日中国交正常化50周年に考える
これまで過激派とは左翼であった
ひと昔は、というか僕らの世代は、過激派といえばもっぱら左翼であった。 60年安保闘争の全学連から、70年前後の学園紛争における全共闘まで、過激なセクトがいろいろと登場し、赤軍派という超過激派につながった。60年安保では、全学連の国会突入と樺美智子さんの死というクラッシュがあり、70年前後には、バリケード封鎖された大学への機動隊導入、新宿騒乱事件、よど号ハイジャック事件、浅間山荘事件、テルアビブ空港乱射事件、三菱重工爆破事件など、かなり激しいクラッシュが連続し、やがて沈静化していった。たまたまクラッシュに出くわして命を落とした人もいるし、さしたることもなく過ぎ去った人もいた。 日本におけるこれら一連の現象は、世界の先進国と連動していた。第二次世界大戦のあとは、極端な国家主義に振れていた振り子が逆に振れて、どこの国でも左翼傾向が強くなったのだ。70年前後、アメリカではウッドストックなどに象徴される反体制運動(主としてベトナム反戦の主旨)が激化し、ジョーン・バエズやボブ・ディランの反戦歌が若者たちの支持をえた。ヨーロッパではパリの5月危機、カルチェ・ラタンが印象的であった。 世界的な転換期は、ベトナム戦争の終結であったのではないか。先進国の若者全体に、左翼思想からの厭戦的離脱が見られた。資本主義の代表選手としてのアメリカが続けた、アジアにおける共産主義の拡大を食い止めるための戦争、それもきわめて非対称の非人道的ないわば過激な殺戮をともなう戦争が終結することによって、それに対する過激な反対運動も終結に向かったのである。このころから世界の過激派の振り子が左から中央に向かって振れ返したように思う。そしてベルリンの壁崩壊と、ロシアを含む東ヨーロッパ諸国の社会主義崩壊が、振り子の最下点(中央点)であった。 この間、中国では左の過激化としての文化大革命、その終焉による振り子の振り戻しとしての改革開放がこれに呼応する現象であったが、これについてはあとに述べる。東欧諸国は多く西側に向かい、総じて、世界の振り子がゆっくりと保守化傾向に動いたのであり、これを「歴史の終わり」と表現した人(フランシス・フクヤマ)もいた。