モノづくり1500年の堺が生んだ「スーパー刀匠」
堺が刃物の町となった理由
堺が刃物の町となったきっかけは、古代5世紀に遡る。日本最大の仁徳天皇陵古墳築造の際に使った鍬(くわ)や鋤(すき)などを造る鍛冶技術を持った職人が、堺に定住していたと考えられている。 16世紀、日本に鉄砲と共にタバコが伝来すると、堺の鍛冶職人がタバコの葉を刻むタバコ包丁を製造するようになる。江戸幕府は、切れ味鋭い堺のタバコ包丁に品質を証明する「極印」を与え、幕府の専売品としたため、その名が全国にとどろいた。この伝統の技が現在の和包丁にも受け継がれている。
その特徴は鍛造技術と片刃構造
堺刃物の第1の特長は、真っ赤に熱した軟鉄や鋼を、1本1本叩いて鍛える「鍛造」という技法で造られていることだ。 焼き入れや焼き戻しなど、何百年にもわたって継承されている技によって強度と粘り強さを高め、切れ味と耐久性、美しさを生み出す。また、刃の強度としなやかさを出すために、柔らかい軟鉄(なんてつ)と硬い鋼(はがね)を鍛接(たんせつ)するのも堺独自の技術だ。 第2の特長は「片刃(かたは)構造」であること。世界的には、刃物の刃先は両側が均等に研がれた両刃であるのに対し、堺の包丁は片側のみが斜めに研がれた片刃が主流となっている。片側のみが研がれているため、刃先の厚みが両刃のものよりも薄くなり、食材の繊維や細胞膜を押しつぶすことなく、鮮やかな切れ味が生まれる。 また、片側の胴部分をほんの少し、内側に緩いカーブ(裏すき)をつけることで、切った食材が刃から離れやすくなる。こうした匠(たくみ)の技が随所に見られることが堺刃物の特質だ。
鉄砲製造から培われた分業制
そして第3の特長が、鉄砲製造から培われた分業制であること。 水野鍛錬所の前には、「榎並屋勘左衛門(えなみや・かんざえもん)芝辻理右衛門(しばつじ・りえもん)屋敷跡」の掲示板が立っている。榎並屋勘左衛門家と芝辻理右衛門家は、江戸時代の鉄砲鍛冶の中心的な存在で、近くに暮らす下職に鉄砲の部品を造らせ、その部品を集めて組み立て、徳川家らに販売していた。いわば鉄砲造りのプロデューサーだ。現在、水野鍛錬所がある場所から少し南が芝辻理右衛門屋敷跡とされていて、この界隈はまさに鉄砲製造の拠点となっていたのだ。鉄砲の分業制が、刃物造りにも引き継がれたと思われる。 「僕が庖丁を造り始めたとき、専属の研ぎ師さんのところへ持っていったら、『こんな下手な作り方したもん、研がれへん』って、見ただけでつき返されました。それから1年くらいして持っていったら、半分だけ研いだ庖丁を返された。『見た目はいいけど、本質がなってない。歪(ひず)みの出方もおかしいし、刃も欠ける』と。それから、また1年くらいたって持って行ったらようやく『まぁ、合格かな』と言ってもらえました。 今は、若い研ぎ師の子が僕の庖丁を研いで、見せにきたら『下手くそやな。もう一回研ぎ直せ』と言えるようになりました。分業することで、それぞれが厳しい目でチェックし、品質の悪いものが市場に出回らない仕組みになっているんです。 日本刀を造るのも完全分業制で、それぞれの力を結集した総合芸術です。刀を造る刀鍛冶、刃を研ぐ研ぎ師、刀身を収める鞘(さや)を作る鞘師、刀身と鞘を固定し、鞘に収めた刀が直に鞘に触れるのを防ぐ役目をする鎺(はばき)を作るのは白銀師(しろがねし)。柄(つか)に鮫肌(さめはだ)を巻くのは柄巻師(つかまきし)、柄巻の上に糸を巻くのは組紐師(くみひもし)、刀に龍などの彫刻をしたり、樋(ひ)と呼ばれる細い直線を彫るのは金工師(きんこうし)、白鞘(しらさや)の上から漆(うるし)を塗るのは塗師(ぬし)、漆の上から蒔絵(まきえ)を施すのは蒔絵師の仕事です。 それぞれのスペシャリストが技を極めて完成させるからこそ、素晴らしい刀が出来上がるわけです」(水野氏)