モノづくり1500年の堺が生んだ「スーパー刀匠」
今回は、世界に誇る堺(さかい)の刃物を取り上げる。堺の包丁は、プロの料理人が使用する和包丁の9割以上のシェアを誇り、昨今の和食ブームも相まって、海外からも熱い視線が注がれている。堺の鍛造(たんぞう)業者の中で、府内で唯一、日本刀も鍛造している水野鍛錬所(みずのたんれんじょ)五代目・水野淳(みずの・じゅん)氏を訪ねた。 駒込は江戸時代から風情たっぷりの「花の駅」
黄金のまち・堺
今から半世紀ほど前の1978(昭和53)年、堺の商人・呂宋助左衛門(るそん・すけざえもん)を主人公にしたNHKの大河ドラマ『黄金の日々』が放送された。 室町時代後半から江戸時代初期にかけ、日明貿易や南蛮貿易で栄え、国際貿易都市として独自の発展を遂げた自治都市・堺は1543(天文12)年、種子島に鉄砲が伝えられてから、10年余りで火縄銃の量産に成功。戦国の世にあって、多くの大名が堺の鉄砲を求めた。「東洋のベニス」と謳われた中世の堺は技術・文化の発信地でもあり、鉄砲の他に線香や三味線、傘などが造られ全国に広がった。 その後も自転車や瓶詰めの酒など堺で生まれたものは数多く、「ものの始まり、何でも堺」という言葉があるほど、堺は進取の気性に富んだものづくりの町だ。 堺の人に出身地を聞くと「大阪」と答えずに「堺」と答えるという。大阪にあって、堺は大阪ではない。堺人のプライドは、こうした歴史に裏打ちされているのである。
日本刀と庖丁を鍛造する堺唯一の鍛錬所
世界に名だたる刃物の町・堺で、現在、庖丁と共に日本刀を鍛造している唯一の工房が、創業1872(明治5)年の水野鍛錬所だ。堺市北部・桜之町(さくらのちょう)界隈は、太平洋戦争末期の堺空襲の際、奇跡的に戦災を免れた。そのため、現在も江戸時代から戦前に建てられた歴史的建造物が点在する。水野鍛錬所もまた、古式ゆかしい風格漂う建物だ。 店内には、庖丁がずらり。ど素人の私にも、本物が持つオーラがビシビシ伝わってくる。私のような、なまくらものが話を聞かせてもらってもいいんやろか。お話を伺う前から、腰が引け気味やったんを告白する。 奈良・法隆寺の国宝・五重塔の九輪の四方にかかる「魔除け鎌」は300年毎に架け替えられるが、1952(昭和27)年の大改修の際、水野鍛錬所がこの「魔除け鎌」を鍛造、奉納した。他にも住吉大社(大阪市住吉区)や生國魂(いくたま)神社(大阪市天王寺区)、大鳥神社(大阪府堺市)など神社に奉納する御神刀や、全日本学生相撲選手権優勝者に贈呈される日本刀などを造っている。 初代・水野寅吉(とらきち)氏は庖丁を造っていたが、二代目・正範(まさのり)氏からは、刀も鍛えるようになった。1876(明治9)年の廃刀令後、刀剣業界は衰退の一途を辿っていたが、昭和の日中戦争・太平洋戦争の時代になると、兵隊が持つ軍刀の需要が高まった。 そこで正範氏は、京都・衣笠の立命館大学に併設された立命館日本刀鍛錬所で鍛刀(たんとう)を習い、刀を造るようになる。立命館日本刀鍛錬所の所長は、兵庫県舞子にあった有栖川宮(ありすがわのみや)別邸内鍛錬所に仕え、後に宮内省御用刀工となった刀匠・桜井卍正次(さくらい・まんじまさつぐ)氏の息子・桜井正幸(まさゆき)氏だ。 戦時中は、粗悪なバネ材を使った急ごしらえの刀も多かったが、水野家では上級士官らが携行する、古式に則った上等な刀を造っていた。