ノーベル賞研究支えた「ショウジョウバエ」生理学・医学賞
どうしてハエの研究でヒトのことが分かる?
見た目も大きさもヒトとは全く違うハエ。そんなハエの研究結果が、ヒトの体の仕組みの解明や病気の治療につながっていくというのはなんだか不思議ですね。その背景にあるのは、生物に共通の仕組みです。モーガン博士が発見した「遺伝子は染色体にある」という事実にはじまり、DNAという遺伝暗号、生存に必要な遺伝子の種類など、地球上に生息する生物にはいくつもの共通点があります。この共通の仕組みを土台として、さまざまな生物を対象とする研究の蓄積が、巡りめぐってヒトの体の仕組みを解明することにつながっているのです。 研究の蓄積量という点において、長く研究されてきたショウジョウバエの右に出る生物はそういません。ショウジョウバエの研究がノーベル賞を複数回受賞してきた理由はここにあります。ホメオティック遺伝子や時計遺伝子が、他の生物を差し置いてショウジョウバエから最初に発見されたのは偶然ではないのです。モーガン博士の研究以降、多くの研究者がショウジョウバエを使うようになりました。そのおかげで現在に至るまでに、形態や行動が通常とは異なるさまざまな突然変異と、その原因遺伝子が特定されています。ホメオティック遺伝子は、本来は翅にはならない部位が翅になってしまった個体から、そして時計遺伝子は羽化のタイミングなどが通常とは異なる個体からそれぞれ見つかりました。
生物共通のものだけでなく多様性も対象に
ただ今後は、決してショウジョウバエのようには研究分野でメジャーでないような生き物への理解も加速するでしょう。というのも、今世紀に入ってからDNAの塩基配列を読み取る技術が飛躍的に向上し、かかる費用も格段に安くなりました。この技術は、まだよく調べられていない生物のユニークな行動や生態を調べる研究などに重要な役割を果たすでしょう。生命科学の研究は、多くの生物に共通する項目の研究だけでなく、多様性を踏まえて研究できるようになってきたのです。 また、この技術進歩は、ほかならぬヒトを対象とした研究にも大きな変化をもたらしています。それまで「できたらいいな」と考えていた研究――例えば、ある病気の人とそうではない人のゲノムを比べて、その病気になりやすい遺伝的な体質を調べる研究や、腸内細菌叢(そう)など、私たちヒトの体内にいる微生物が宿主に与える影響を知る――などといった研究が実際にできるようになっています。 さらに、ゲノム編集という技術のおかげで、個々の遺伝子の働きを解明することが、以前よりもずっと簡単に素早くできるようになりました。生命科学の研究の世界は、いまとても面白い時代に突入しています。 今回は研究に使われてきた生物に注目して過去のノーベル賞受賞研究を紹介しました。今、研究者の目は多様性にも向かいつつありますが、そのときに比較するための原典として参照されるのは、昔から研究に使われ、科学を支えてきた生物たちです。研究者がなぜその生物を選んだのか、その生物を使ってどんな方法でどんな事実を突き止めたのかを知ることで、研究の様子が少しだけ垣間見えてくるような気がしませんか。
◎日本科学未来館 科学コミュニケーター 小林望(こばやし・のぞみ) 神奈川県生まれ。昆虫好きではなかったが、学生時代に魅力あふれる研究者たちに出会い衛生昆虫学の道へ。大学院で蚊の分類、分布を研究。2018年10月より現職