「海を嫌いになることなんてできない」母になった“つなみの子” 10年後の決断 #知り続ける
東北地方に深い傷痕を残した東日本大震災。津波で家を流されたり、原発事故からの避難で家を離れたり、多くの人たちが過酷な人生を強いられた。そんななか、当時の自身の体験を記し、「つなみ」という作文集に寄せた子たちがいる。震災から13年。その子どもたちはやがて大人になり、そして母になった。当時中学生だった彼女たちが、いま母となって何を思うのか。被災地だった地元で暮らし続ける思いとはどういうものか。宮城県気仙沼市と福島県大熊町を訪ねた。(文・写真:ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
能登の津波警報に「血の気が引いた」元日
2月初旬、宮城県気仙沼市の内湾地区のカフェ。吹いてくる風はまだ冷たい。 2歳の柊和(ひより)ちゃんは外のテラスで遊んでいたが、寒くなったようで父親の尾形成海さん(27)と中に戻ってきた。少し“イヤイヤ”の表情で、母親の尾形日向子さん(27)のもとへと駆け寄る。「ちょっと今日はお外、寒いんじゃないの?」。そう言いながら、日向子さんは柊和ちゃんを抱っこした。
そして、今年の元日に起きた能登半島地震について語りだした。 「元日の夕方、(気仙沼湾に面した)神社に夫と子どもといたんです。そしたら夫がスマホを見て『え、石川で震度7だって』って。その瞬間、心臓がバクバクってなりだして……。“あの時”の感覚に似て、血の気が引いていきました」 3人は日向子さん方の実家に帰り、テレビをつけた。テレビではアナウンサーが強い調子で津波からの避難を呼びかけていた。 「津波警報を見ると、やっぱり胸が苦しくなりました。父や祖母も経験してるから、みんな無言でテレビに釘付けになっていました」 日向子さん方の家族にとって、津波は文字通り人ごとではなかった。13年前のあの日、家を流されていたからだ。
「愛した海に気仙沼はやられ」震災後に寄せた作文
日向子さんの実家、斉藤家は祖父母の代から気仙沼市の内湾地区で続く日本茶葉の販売店だった。店舗兼住宅は汽船の桟橋から数十メートルという距離。2011年の3月11日、内湾地区を襲った津波は高さ約6メートル。斉藤家も含め、周囲一帯の建物をすべて押し流していった。