「海を嫌いになることなんてできない」母になった“つなみの子” 10年後の決断 #知り続ける
「入社してさまざまな勤務地で上司とうまくいかなくて、会社に行けない時期もあり、悩んでいました。福島に来たとき、『食堂に飲みに行こう』と誘われ、そこで紹介されたのが真知瑠ちゃんでした。彼女と話したら、すごく楽になったんです。『そんなに考えなくていいよ、まずやってみれば』という人で。そこから、仕事に前向きになり、周りからも『変わった』と言われるようになりました」 真知瑠さんは当初、「用もないのに“だる絡み”してきてうざい」と思ったそうだが、努めて明るく振る舞う大輝さんが奥底に秘めている芯も感じていた。 「私自身、以前はメンタル的に安定してなくて、考え込むような時期もあった。だから、理解できるという部分がありましたね」 そう振り返るように、震災からしばらくの間、真知瑠さんにも思い悩む日々が少なくなかった。その根っこにあるのは、福島第一原発事故の大熊町出身ということに対する周囲の認識とのズレだった。
「原発の事を恨んでなどいません」でも、苦しい胸の内
震災1年を前にした2012年1月、筆者は原発事故で避難している福島の子どもたちに作文を依頼しに回った。その中で会津若松市に避難していたのが大熊町出身の子どもたちだった。仮設団地で4人が応じてくれたが、その一人が当時中2だった齋藤真知瑠さん(旧姓)だった。
真知瑠さんはこんな思いを作文に記した。 <おそらく、もう私の生きている間には戻れません。(略)しかし、私は原発の事を恨んでなどいません。逆に誇りに思っています。あの町をあそこまで支えてくれたのは原発です。(略)もう一度原子炉の青の建て物を見てお花見をしたい。(略)お願いです、私の絶望的な気持ちを、どうか「町に必ず戻れる」という希望に変わるような出来事を起こしてください>(『つなみ 被災地の子どもたちの作文集 完全版』) 当時、福島第一原発事故の当事者である東京電力への批判が強まっていた時期だが、真知瑠さんはそんな批判をものともせず、大熊町の住民としての思いを率直に記していた。 ただ、その後の日々は思うようにはいかなかった。震災から5年後の2016年2月に刊行された作文集には「私の5年間は本当に怒涛の5年間でした」と冒頭で記すほど苦悩した。胸を弾ませて入学した高校では周囲の目が気になったうえ、やはり東電や原発への批判の声に悩まされた。 <でもやはり、そういう相談や思いを述べるのは、誰に対しても出来るものじゃないし、きっと震災や東京電力の話しなんかをしたらみんな暗い気持ちになってしまうと思い、誰にも相談しませんでした。私はだんだんとみんなと距離を空け始め、最後には学校にも行かなくなりました。辛かったです。>(『つなみ 5年後の子どもたちの作文集』) 当時のことを投げかけると、真知瑠さんは、そういうときもありましたねと感慨深げに振り返った。 「まだ若かったし、真剣に考えすぎていたんだと思います。つい抱えこんじゃったというか。でも、当時つらかったのは確かです」