パソコン通信「NIFTY-Serve」「AOL」の普及とインターネット商用化解禁[第1部 - 第5話]
「インターネット広告創世記~Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第5話。前回の記事はこちらです。今回の記事では、1993~1994年頃の出来事を佐藤さんの視点から振り返っていきます。 杓谷 第4話では、山海塾のツアーをきっかけに、子供向けバラエティ番組『ウゴウゴ・ルーガ』のCG制作を担当された氏家啓雄さんと出会い、アップルコンピュータへの興味を深めていきました。旭通信社のクリエイティブ制作の現場にもMacが登場しはじめましたね。 佐藤 当時僕は「国際一部」という部署に所属しており、日本企業を海外に宣伝する仕事をしていました。隣には「国際二部」という部署もあり、こちらは逆に海外の企業を日本国内で宣伝するための部署でした。その提携先であった米国の広告代理店BBDOとの関係を通じて取り扱っていたのが、アップルコンピュータ(現Apple Inc. 以下、Apple)でした。
Appleの国内プロモーションを担当することに
佐藤:この頃には、コンピューターもかなり複雑になってきていました。国際二部の担当者がAppleの商品説明のオリエンテーションを聞いても理解できず、「辞めたい」と言い出すほどでした。国内事業部でイベント企画などを行っていたSP部(Sales Promotion)に、Macに詳しい方が一人いて、ほとんどその人がクライアントと直接やり取りをしているというような状況でした。 「担当者が辞めるなら、部署としての取り扱いもやめようか」という方向に話が進んでいく中で、「もったいないじゃないですか、僕がやります!」と、つい言ってしまいました。すると本部長が、SP部のMacに詳しい人を国際部に異動させ、「お前らでやってみろ」と言い出しました。こうして、1994年からは僕ら二人でAppleを担当することになりました。
彼は長らくAppleとのやり取りを続けてきたため、Appleの日本法人との関係構築ができていました。当時は「Power Macintosh」シリーズが発売されたばかりで、「Power Mac Night」というイベントを渋谷のクラブで開催することになりました。