「わたくし95歳」1945年8月9日長崎で、16歳の「わたくし」が見た家族の最期
「私に残ったのはこれだけ」と血糊を摺り込んだ
次の日、叔父と2人で駒場町の家に向かった。妹には二度とあの町は見せたくなく、連れていかなかった。 叔父がリヤカーを引き、その横を歩いた。家が近くなると死体が増えた。大きく膨れ上がった馬が2頭、横になって倒れていた。進めば進むほど死体が増えた。あたりは死体の山だった。真夏の死体がどんな状態か見なくてもわかる。目を伏せて歩いた。家に着く少し前に叔父とは一旦別れ、一人で家に向かった。 妹の話どおり、1本だけ残った門柱に父が寄りかかって立っていた。妹が見た時と違い、真っ黒に焼けていた。大きく開けた口に瓦礫のようなものがいっぱいに詰まっていた。手に持ったメガホンもそのまま真っ黒になっていた。門を入ると右側に、父が子供たちのために作った土俵がそのまま残っていた。 一体何がどうなってこうなったのかわからないが、門柱と基礎土台以外の家はほとんどなくなっていて、母も弟たちも人の形ではなく、黒く丸い盛り上がりになっていた。 次男は、いつものように茶の間で勉強をしていたのだろう、両手で掬えるくらいの小さな真っ黒い塊がそこにあった。持ち上げると、次男の衣類の端が焼け残っていた。土俵の相撲を見物していた部屋の廊下だったあたりに、もう少し大きな塊があった。妹が言ったとおり、母が三男に覆い被さったのだろう、中から出てきた小さな布切れは母と弟の衣服だった。長男はどこで死んだのか、わからないままだった。 瓦礫の中から焼け残ったトタンを探し、引きずって持って来た。大きくて重いトタンの上に父、母、弟2人を順番に並べた。焼け残った木片と、たくさんの瓦礫で囲んで火を付けると、燻(くすぶ)っていた瓦礫はすぐに勢いよく燃え上がった。家族を荼毘に付しながら、煤(すす)とベトベトした血糊で真っ黒になった両手を見た。「私に残ったのはこれだけ」両手を強く摺り合わせた。「私に残されたのはこれだけ」両腕にも強く摺り付け、体の中に入れた。 その間にも「敵機襲来」の叫び声が幾度も起こった。低空飛行で旋回する米軍機に人々は物影のない焼け跡を逃げ回ったが、私は逃げなかった。私には両親と弟たちを弔うことが大切だった。そしてもう恐怖心というものもなくなっていた。極限の悲しみは恐怖心だけでなく、涙も奪った。涙一滴出なかった。 火葬が終わる頃、叔父がリヤカーを引いて来た。2人で裏庭に行った。広い裏庭では、母がその一角を耕し、野菜を作っていた。母は畑の周りに蔓バラを植えていた。私は、そこに咲く赤や白の小さなバラが大好きだった。 畑には茄子も植えていて、その下に荷物用の防空壕が掘ってあった。父の会社の人たちか、母の兄たちが掘ってくれたようだ。私は、防空壕があることは知っていたが、見たことも覗いたこともなかった。焼け残った真っ黒な扉を開くと、大きな米の袋があり、大きなザルが立てかけてあった。防空壕の中に火は入らず、無事だった。2~3段の階段を下りると両脇に箪笥があり、真ん中に私と妹用の新しい布団が積まれていた。2棹の箪笥には父と母の着物がいっぱいに入っていた。リヤカーに箪笥は載らない。着物が入ったままの引き出しだけを積み、その上に布団を積んだ。 両親と弟たちのお骨を中にあった綺麗な布でひとりずつ包んだ。米袋に立てかけてあったザルに並べて乗せ、リヤカーの荷物の上に置いて紐で固定した。 叔父がリヤカーを引き歩き出すと、私は荷物を支えながら後ろから押した。 次の日、お骨をお墓に持って行った。叔父、叔母、従兄弟、妹と私の5人だけだった。叔父が重い石の蓋を開け、みんなで納骨した。それが家族の葬式だった。