「わたくし95歳」1945年8月9日長崎で、16歳の「わたくし」が見た家族の最期
数えきれない死体の山、そして誰もいなくなった
妹の話を聞いている間にも横穴壕にはたくさんの負傷者が次々に入ってきた。頭の皮がめくれ顔に被さっている人、体がちぎれ血まみれの人、眼球が飛び出している人、火傷で膨れ上がっている人、横穴壕の入り口近くまで来て苦しみ、そのまま死んでしまう人。 妹と一緒に横穴壕に残っていた隣家の女の子が「かあちゃん、助けて」と泣き叫んでいた。背中に赤ちゃんを背負い、妹の手を引いていた。隣は町内会長さんの家だった。その女の子は、国民学校5年生とまだ子供なのに朝早くから水汲みをしたりと、いつもよく働いていた。その子には医大生の兄がいた。その兄が、友だちに助けられながら横穴壕に辿り着いたのが見えた。腰の骨を折っていた。兄妹はお互いを見て「助かった」と喜んでいた。しかし、その3日後、医大生の兄は「死にたくない、死にたくない」と言いながら亡くなったそうだ。 父のことは中学生の男の子から聞いた。その子は町内会長宅の隣(うちの又隣)に住んでいた男の子の同級生だった。その子と又隣の男の子2人は、妹同じ三菱の工場に通っていた。駒場町(現・松山町)に向かって帰宅中に原爆に遭った。その子は「(又隣の子は)原爆が落ちた時、川に飛ばされて、わからなくなった」と言った。そして、「おじさん(私の父)は、朝の空襲警報解除の後もメガホンで、広島に新型爆弾が落ちた、気をつけるようにと近所に言って廻っていた」と又隣の子が言っていた、と教えてくれた。 私と妹は横穴壕の子供たちと別れを惜しんだ。そして「東小島(ひがしこしま)に行こう」と歩き出した。東小島町には叔母(父の妹)夫妻がいた。私たちの胸に縫い付けられた名札には叔母の住所が記されていた。「いざという時は東小島に行け」父と母の声が聞こえるようだった。父は6人兄弟の長男、その父が一番信頼していたのが4番めの妹、東小島町の叔母だった。 浦上川を渡ると家があった駒場町だが、その梁橋(やなばし)は渡らず、横穴壕がある油木町から稲佐町へと南へ下った。稲佐橋を渡り、また南へ下り、大波止(おおはと)へ、ここまで約4km。数えきれない死体を見た。そして銅座町へ。銅座から丸山町への道に入ると、今度は人ひとり、犬一匹、猫一匹すらいない。みんなどこへ行ったのか、人はいったいどこへ行ってしまったのか。不気味な無人の町は恐ろしく、心細さが限界に近づいていた。 黙って歩き続けている時、ついに限界に達した妹が言った。「叔母さんたち、いるやろうか」繋いだ手に力が入った。ぽつんと言ったその言葉は、私が一生懸命に頭の中で振り払っている言葉だった。昼日中、誰もいない空っぽの家と家の間の細い道を、ただ黙って正覚寺を目指して歩いた。 東小島町に入った。正覚寺を過ぎたあたりで家の中に人の気配を感じた。もうすぐだ。進んでいくと、その気配は増していき、やっと気持ちが楽になった。細い石段を上ると叔母の家だ。 いた。見上げた先に叔母たちがいた。家の前に集まっていた近所の人たちが、歓声をあげた。私たち家族を心配して集まってくれていた。「良かった、よう来た」叔母と叔父が泣いて喜んだ。 その夜、妹に初潮をみた。私は慌てた。何もないのだから。叔母に一言言えばいいものを、恥ずかしさが先にたち言えなかった。思い付いたのは新聞紙だった。