「わたくし95歳」1945年8月9日長崎で、16歳の「わたくし」が見た家族の最期
「みんな死んだ、みんな死んだ」
やっとの思いで横穴壕(横穴防空壕)に着くと、私が来たことを誰かに聞いたのか、妹が飛び出してきた。 「みんな死んだ、みんな死んだ」 泣きじゃくりながらすがりつき、見たこと、あったことを一気に話し出した。 妹は活水女学校(現・活水中学校)の1年生で、長崎駅対岸にある三菱の工場(三菱重工業 長崎造船所)に通っていた。8月1日、そこが空襲でやられた。妹はちょうど交通船を降りる時に機銃掃射を受けて、跳ね飛ばされ、気絶した。気がついた時、その惨状に震え上がった。周りは負傷者でいっぱい。同じところで生き残った人の話によれば、爆撃でバラバラになった首や手足につまずきながら逃げ帰ったそうだ。驚くことに妹は無傷だった。しかし、怯えは直らず、横穴壕に逃げ帰ったきり、そこから一歩も出られなくなった。 両親はとても心配して、横穴壕に布団や身の回りのものを運び、寝かせていた。3人の弟たちも横穴壕で寝ることになった。「広島に新型爆弾が落ちた。気をつけろ」と近所に言って廻っていた父が、弟たちもそこで寝かせようと決めたのだろう。 8月9日 午前7時48分 警戒警報発令 同 7時50分 空襲警報発令 同 8時30分 同 解除 妹が早口で話した。 朝、空襲警報のサイレンが鳴り、近所の子供たちが横穴壕に飛び込んできた。みんなで横穴の奥に身を寄せて隠れた。でもしばらくすると「空襲警報解除、空襲警報解除」の声が聞こえてきた。暗い横穴に隠れていた子供たちは一斉に外に飛び出した。弟たちも、妹が止めるのも聞かず飛び出し、手を繋ぎ走って家に帰ってしまった。妹と隣の家の女の子、他に数人だけが残った。 しばらくすると、突然、ピカッと光った。暗い穴の奥まで明るく光った。次の瞬間、爆風が吹き込み、子供たちが飛ばされた。みんな壁に叩きつけられて気を失ったようだった。 妹はすぐに立ち上がり、横穴壕を出ると夢中で家に向かって走った。壊れた家の片側だけ残った門柱に父親が体をもたせかけて立っていた。片手にメガホンを持っていた。目をカーッと見開き、大きく開けた口の中には何かがいっぱい詰まっていた。 家の中では母が国民学校1年生の弟に覆い被さっていた。母の体を起こすと、弟のきれいな顔があった。 父が生きているように見えた妹は、「父ちゃん、早よう逃げよう」、そう声をかけた。その時「お嬢ちゃん、危ない」と後ろから来た誰かに引っ張られ、路面電車通りに走った。振り返ると城山町の方から火が、舌が舐めるように浦上川を渡り、凄い勢いで襲ってきていた。