「わたくし95歳」1945年8月9日長崎で、16歳の「わたくし」が見た家族の最期
叔父が言った「死ぬ時は一緒」
お墓へ行った日の3日後の8月15日、敗戦を知った。玉音放送は、聞かなかった。近所の人たちから戦争が終わったと聞いた。ラジオから聞こえる声はラジオの音質の悪さと言葉の難解さで、皆すぐには理解できなかったようだ。少し時間はかかったが、みんなの顔から力が抜けた。 しかし、それから2時間も経たない内に、近所が騒々しくなった。 「アメリカ軍が上陸するぞ」 「アメリカ軍が襲ってくるぞ」 「女たちが危ない」 私たちは大急ぎで逃げる準備をした。近所の人たちも皆リヤカーに荷物を積み、長崎駅に向かった。私たちは駅に向かう前に叔母の弟、つまり父の弟にあたる叔父の家に寄った。着くとそこはもぬけのから、すでに逃げた後だった。空っぽになった家を見た時、ゾッとした。それまで感じたことのない恐怖が襲ってきた。 とにかく逃げなければならない。私たちは長崎駅へ急いだ。駅への道は長崎を脱出しようとする人々で混み合い、混雑していた。 やっとの思いで何とか駅に着いても、そこはもう身動きが取れないほどの人、人、人。とうてい列車には乗れない、不安でいっぱいになった。親戚の家に行ったことで遠回りになり、下駄履きの足が限界だった。体だけでなく心も限界、全てが限界、もう耐えられないと思った。妹も同じだった。私たちは、混雑と混乱の人いきれの中、立っているのもやっとだった。 その時、叔父がはっきりとした声で言った。 「帰ろう、死ぬ時は一緒」 その場に崩れ落ちそうになった。心の底からホッとした。叔父の決意が嬉しかった。叔母も従兄弟も私も妹も「もうひと頑張り」と力が湧いた。 東小島の家に帰り着いた時は、日が暮れていた。明かりがついた家はなく、どの家も空っぽ、町は真っ暗で誰もいなかった。 叔母が、意を決した顔で、飼っていた鶏をしめた。その頃は、どこも食料として鶏やウサギを飼っていた。情の厚い叔母のこと、いつしか鶏は食べものとしてではなく、一羽の鳥として飼っていたのではないだろうか。しかし、死ぬ時は一緒、鶏も一緒。その夜の丸いお膳には正月のようなご馳走が並んだ。料理上手の叔母は、ありったけの食料を使い、手際良くご馳走を作った。いつ来るかわからないアメリカ軍のことはすっかり忘れていた。美味しかった。楽しかった。5人で食べる最後の晩餐だと思った。 アメリカ軍は来なかった。翌日も、その翌日も。気づくと町の人たちも戻っていた。私は心も体も解放されていた。空襲がないだけで楽だった。 最後の晩餐、その夜、私はそれまでのことを全て忘れた。
森田 富美子、森田 京子