「とんねるずは死にました」―戦力外通告された石橋貴明58歳、「新しい遊び場」で生き返るまで
ビビってきたのは、まだ25、26歳の頃だった。早い成功に焦りが生まれる。 「あまりにも早くよい位置に着いちゃったので、キープしつつ前に進むには、よっぽどのヒットを出さないと。(レギュラーだった)『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、85年4月~87年8月)が最初面白かったのに、途中からおニャン子クラブの番組みたいになっちゃって。『おニャン子クラブが終わったら、俺らも終わっちゃうんじゃないの?』って。『とにかく自分らの番組を作らないと』と思って、ひたすら企画書を書いてフジテレビに頼んでいました」 87年に『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ)、翌年には『とんねるずのみなさんのおかげです。』(同)がスタート。冠番組のヒットで揺るぎない地位を築いた。
「100人全員を笑わせるのは不可能だと思うんですよ。絶対、自分の感性で笑わせたいという気持ちもある。1人でも引っかかって笑ってくれたら嬉しいんですけど、冠番組だと、1%じゃダメなんですよね。最大公約数を取りにいかないと。テレビというメディアは視聴率を取らないと続いていかないので。自分のやりたい方向に何かを足さないと、ある程度の数字は出てこなくなっちゃう」 視聴率については、「やってもやっても……正解が見つからない」と語る。 「最大公約数をどう求めていくか。時代であったり、いろんなことが重なり合わないと難しい。きっかけをつかんで、雪だるま式にでかくする。自分たちだけじゃなく、スタッフの力も必要で。スタッフが同じ方向を向いているかどうか、これが一番大事。端から端まで常にコミュニケーションをとって、巻き込んでいく。みんなプロでしたから、難しい発注をしても応えてくれましたね。『頭が焼けない程度にカツラが燃えるようにしてくれ』とか(笑)」
「浮かれる時間が短いやつほど芸能界に長く残れる」
30歳の時、倉本聰に言われた一言が今も指針になっている。 「『お前は不器用だな。でも、一生懸命やり続けるとその不器用が武器になることもあるからな。それを肝に銘じてコツコツやっていくしかない』って。一番の敵も味方も自分ですよね。怠け者だし、毎日コツコツやるなんてことができなくて。だけど倉本さんに言われた言葉があるから、もうしようがない、俺はできないんだからやるしかないんだな、って」 「感性と、コツコツやること。自分の感性に関しては誰にも負けない自信があった。例えば、瞬間瞬間に言葉をチョイスしていく感性だとか。あともう一つは、品格を持ってやること。それがないと何でもよくなっちゃう。東京っぽくないのかなって」 東京っぽさとは何だろうか。 「東京でお笑いを目指す人たちは、舞台とかを踏まないじゃないですか。そういう部分ではものすごくハンデがあると思う。どうやって関西のお笑いに対抗していくかといったら、感性だと思うんですよ。センス。どういう切り口で作っていくかとか」