菅政権 vs 日本学術会議――権力(政治)と権威(学術)の闘い
「安全保障関連法に反対する学者の会」が14日、東京都内で記者会見して「菅義偉首相が日本学術会議会員への被推薦者6名の任命を見送ったことは、日本学術会議の独立性と学問の自由を侵害する許しがたい行為」などとする抗議声明を発表しました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は今回の事態について「菅政権の勇み足」と感じる一方で、「現代日本の学術権威の空洞化を露呈させた」ともいいます。若山氏が独自の視点で論じます。
高支持率からの勇み足か
菅義偉首相が日本学術会議推薦の学者6人を任命拒否したことが大きな問題となっている。 たしかにこれは戦後日本では珍しい事件だ。これまで、政治権力が学術的な権威に踏み込むことはほとんどなかったからである。よく道徳教育や歴史教科書が取り上げられるのは、それが学術と政治の境界線にある問題だからだろう。 そもそも総理大臣に実質的な任命権があるかないか、あるとしてもなぜその6人が拒否されたのか、その名簿のいきさつに対する疑問などがマスコミの論点となっている。どうもその6人は、安倍・菅政権の政治方針、特に安全保障や歴史認識に関する方針に反対であったことが背景にあるようだ。もしそうだとすれば、政治権力が本来自由であるべき学術研究に介入したということになり、問題になるのも不思議ではない。僕も、当初の期待を超える高い支持率を得た政権の勇み足かと考えた。 しかし時間とともに、日本学術会議に対する批判もあちこちから聞こえてくるようになった。これもまた不思議ではない。ここでは政権の批判もしくは擁護をさておき、この問題を「政治権力」と「学術権威」の葛藤ととらえて、それが現代日本社会において、どのような意味をもっているのか考えてみたい。
権威主義化する学術機関
国民のほとんどは日本学術会議なるものをよく認識していないだろう。僕も学者の一端に連なるものとして、それがあることは知っていたが、あまり意識しなかった。しかしこれをよく知っている人からの声は聞こえてくる。実は、内部にいる人からも外部にいる人からも批判的な意見が多いのだ。 社会的に有益なところのない権威主義の機関という評価で、時代に合わないという意見である。特に、内部にいる人が後継者を推薦するという「家元制」的な選び方を問題視する人は少なくない。そのことからも、左派系というだけでなく、学界の既存のピラミッドに乗った人が選ばれる傾向にあって、異端で一匹狼的な学者は能力があっても入れないのだ。 欧米の「アカデミー」に倣っているのだというが、建築モダニズムの歴史潮流において「アカデミズム」というのは「権威主義」として、むしろ悪い意味で使われた。 さらにいえば日本学士院も日本芸術院も、もはや時代に合わない無用の長物という意見が多い。学術も、技術も、芸術も、そういう機関ができたときと比べると格段に裾野が広がって、一部の人たちが恣意的に選別する時代ではないのだ。実はこの世界は、現実の経済力学から離れている分、仲間意識が強く派閥化しやすい。つまり時代の変化によって学術的な権威が寡占化し権益化しているのである。