菅政権 vs 日本学術会議――権力(政治)と権威(学術)の闘い
権威の正統性を鍛える必要
宗教、民族、思想 の葛藤が激しい国家においては、政治が学術に密接に関わってくる。日本でも、戦前、戦後は、歴史学や社会学や法学や経済学といったものが、政治的な思想と絡み合っていた。しかし学園紛争が一段落した70年代以後の日本では、政治と思想の関係も、学術と思想の関係も希薄になっており、学問が政治と寄り添うことも対峙することも少なくなっていた。しかしこれからは(あるいは現在は)、再びそれなりに政治権力と絡み合うことを覚悟しなければならないのかもしれない。 現在では、政治権力も学術権威も、どちらも民主主義を背景とする。 曲がりなりにも民意の審判を受けて成立する政治権力は、現実に対応して常に更新される。一方、今の学術権威は、前述のように、派閥的忖度によって守られたピラミッド型組織となって緊張感がない。学術権威が政治権力に対等に向き合うためには、常に、下からのあるいは外部からの激しい挑戦を受けて内容を更新し、その権威の正統性を鍛える必要があるのだ。 そのためには、安直に思想に結びつかない厳然たる「事実」を地道に積み重ね、論争に耐えうる確固たる論理を構築して、政治権力の介入に抵抗していくほかに道はないだろう。会議に群れている学者たちも目を覚ますべきだ。むしろ野に下り、一匹狼であろうと、異端であろうと、孤高と反骨の論理を貫く覚悟が必要だろう。 今回、政治権力からの一撃が、現代日本の学術権威の空洞化を露呈させることになったとすれば、それはそれでひとつの幸いである。無用な機関が行政改革の対象になるのも当然かもしれない。 もちろんそのことによって任命拒否の問題が帳消しになるというわけではない。6人の任命の帰趨に関しても落としどころが見えない。任命しないことによる個人的実害はほとんどないのだが、国民はそこに改革の障害を力で取り除こうとする「不寛容」を感じるだろう。実は一国の文化にとってもっとも重要な要件は、思想でも理念でもなく「寛容」なのだ。マルクス主義と民族主義の失敗の理由はそこにある。この政権の最大の弱点は「菅官房長官」 がいない、つまり総理に直言できる重みのあるスタッフがいないということではないか。 「良薬は口に苦し」。どんな人間にも苦味を伴う友人が必要だ。