菅政権 vs 日本学術会議――権力(政治)と権威(学術)の闘い
会議だらけの学者たち
そこにはこういった機関だけでなく、日本の学術全般に通じる問題が潜んでいる。 今の学者は、大学、学会、行政など、無数の委員会に忙殺されている。純粋で有能な学者は、時間の無駄の象徴のような委員会に出ることを嫌って学術研究に没頭しようとする。しかし日本では、専門的な学術や技術における個人の業績に対する評価と報奨がきわめて低い。たとえば青色発光ダイオードを発明した(その後ノーベル賞を受賞)中村修二氏は、所属する日亜化学から2万円の報奨金を得たのみであったが、その後アメリカにわたってからの裁判で日亜は200億円の支払いを命じられている(控訴後の和解によって8億円あまりに落ち着いた)。 したがって日本の一般的な学者は、委員長、会長、研究所長、学長などといった社会的立場を望み、そういった場においては独創的な意欲ある学者より、世渡り上手の 無難な学者が浮かび上がる傾向にある。社会的な地位と学術的な実力とは別ものである。僕は若いときから、会議に出ることを仕事と考えている学者が多いことに疑問を感じていた。経営者や政治家は会議が仕事かもしれないが、学者は研究が仕事であり、本来、孤高なものではないか。 しかし日本社会は、たとえばiPS細胞の開発でノーベル賞をとった学者を放ってはおかない。研究所長という管理職に就き、マネージメントや資金集めやテレビ出演に忙殺されて、専門研究に没頭できないことは、学術イノベーションの覇権争いが激しくなる現在の世界で、日本にとって大きな損失である。 僕の知り合いのある学者はいう。 「意識の高い学者なら、権力の介入を批判してか、逆に学術会議の無力を批判してか、どちらにしても日本学術会議を脱会するべきだ。そういう学者が出てこないなら、そのこと自体がこの団体が堕落している証拠じゃないか」 なるほど面白い意見である。日本の家社会的悪弊と長くつづく平和と繁栄は、学術の分野全体に、大きな空洞化をもたらしているのだ。