菅政権 vs 日本学術会議――権力(政治)と権威(学術)の闘い
理系と文系
僕は、人間の知の体系を、物語(神話)・思想(哲学)・自然科学に分けるという考え方をもっている。自分が自然科学系の人間であるからかもしれないが、ニュートンの運動方程式やダーウィンの進化論は、体験的に真実だと信じられる。アインシュタインの相対性理論やハイゼンベルクの不確定性原理は、教えられてではあるが真実だろうと感じる。しかし文系の学説は、ヘーゲルもマルクスもフロイトもヴェーバーもケインズも、その著作はなるほどレベルの高い知的集積ではあると思うが、そのままにわかに真実だとは断定できない。なぜなら、たいていの場合そこには反論があり、その反論自体も かなり高いレベルの知的集積であるからだ。 文系の学説は、人文・社会科学として科学の範疇に入れられてはいても、思想と自然科学のあいだにあるのではないか。つまり文系の学説の正誤には思想が絡むのだ。その点に政治権力が口を挟む余地が残されている。 建築学は、日本では基本的に工学の一部とされるが、都市計画、建築計画、歴史・意匠などは文系の要素があるので、理系・文系の違いがよく分かるのだ。というより、僕自身その違いに悩まされつづけてきた。
軍事研究
実は少し前に某大学の学長から「軍事研究に対する対応を迫られているが、どうするべきか」という相談を受けた。 ごくプライベートな場であったが、正直「ああ、日本はここまできたのか」という印象があった。そして「人命を奪う研究はするべきではないが、人命を守る研究ならいいだろう」というようなことを答えた。もともと工学技術の多くは軍事に転用できる。たとえば、持ち運び可能で丈夫な建築なら、軍事施設としてもきわめて有効である。ましてや現在の高度化した技術は、軍事用民生用などと単純に区別することはできない。 結局、文部科学省と有力大学のリードによって、ほとんどの大学が軍事研究を否定したようだが、そこに日本学術会議も関わっている。そして今回の任命拒否によって再び、その軍事研究問題が浮かび上がっているのだ。 現在の日本では、学術論文も社会評論も、クルーシャル(非常に重要の意・十字架が語源)な問題の多くが太平洋戦争の評価と安全保障の問題に帰結する。当然、戦争直後とは状況が変わってきている。周辺国が無数のミサイルをわが国に向けて領海を侵犯し、憲法も改正されようかという今日、かつての「非武装中立」というような単純な平和主義では立ち行かなくなっている。学者といえども、のほほんとはしていられないのだ。世界のパワーバランスの変化に鋭敏な安倍・菅政権は、官僚やマスコミばかりでなく、学者に対しても、あるいは経済人に対しても(米中のデカップリング問題など)、その立場に対する覚悟を突きつけている。