伊那谷楽園紀行(16)一度きりだったはずのばんざーい!
いったい、どんな人が来るのだろう。そんなことを考えているうちに長い旅路は終わり、伊那市駅に到着した。その夜は、静かに過ぎていった。捧と初めて出会い、伊那の名物を楽しんだ。まだ走ったこともない道を走ることができるのか。ちょっと不安の言葉を漏らすと、捧は「1時間あれば問題なく走れますよ」というのだった。 翌日は、理想的な夏の日だった。雲ひとつない青空。念のため購入した道路地図を見ながら、私は伊那市駅近くの宿から、田切駅へと走り始めた。もっともわかりやすいのは、国道を一直線に走るルート。でも、それはどこか味気ない道のように思えた。地図を見ると、もうひとつ古くからありそうな道が伊那谷を南北に走っていた。きっと、この道は交通量も少なく、マイペースで走ることができるだろう。そう考えて、スーパーで水を買い求めてから、本格的にペダルをこぎ始めた。 見知らぬ道を自転車で走る時は、いつもちょっとした不安がある。どういったペースで走ればよいのか。どれだけ坂を登ったり下りたりするのか。山国である信州の道は、いきなりきつかった。東京というのも、関東平野といいながら、意外に坂の多い街である。でも、伊那谷の道はそれ以上だった。なにより、普段、自転車に身体を慣らそうと走るのは河川敷のサイクリングロードばかり。 だから、ギアを変えたりしながら坂を登っては下りることを繰り返すのは、まったく慣れていなかった。ようやく幾つ目かの坂を登りきったところで、自販機の並んだ集落の酒屋を見つける。そこで一休み。また、しばらく進んで、自販機を見つけて一休み。コンビニがあれば、一休み。のんびりした田園風景。身体に感じる風は、自転車でなくては味わうことのできないもの。でも、もっとも感じたのは、冷たい飲み物を途切れさせない自販機の有り難さであった。 幾分か道に迷いながら、たどり着いた田切駅には、既に大勢の人が集まっていた。田切駅の近くには、かつて小松屋と下村酒店という2軒の店があった。そこは『究極超人あ~る』をきっかけに、訪れた人が必ず立ち寄るところだった。 今では2軒とも商売を止めているが、下村酒店のほうは建物はそのまま。かつてファンたちが作った駅スタンプは、今でも「元・下村酒店」に保管されている。20年にわたって<聖地巡礼>として、田切駅の掃除をしているグループ「田切ネットワーク」は、この催しの開催に合わせて、創立20周年記念展覧会「夏への扉~20年目の同窓会」を開催することを、事前に告知していた。それもあってか、早い時間から参加者は続々と集結。「元・下村酒店」や田切駅周辺で、新たな光画部員と出会い、トークに花を咲かせていた。 開始時間が近づくと、田切駅前の広場は驚くほど賑やかになっていた。自転車を持参して走る人だけではなく、見送りだけをしようという人もやってきて、総勢100人あまりが集まっていた。中には、作中に出てくるキャラクターのコスプレをしている人もいた。誰もが、なにか面白そうなものがあると思って、田切駅にやってきていた。 でも、単に面白いものを欲しがるだけではない。個々人が、思い思いの工夫で「もっと、面白くしてやろう」と、考えていたのだ。中には、作品中に登場する「おかゆライス」を再現しようと、御飯を炊く準備をしてきている人もいた。ここは、1日だけの、楽しい悪ふざけを楽しむ場……。そのことは、確かに共有されていた。主催者でもある捧は、この日のために作品と同じく、ロードマンを入手。何度も、アニメを見直して改造。その上で、あ~ると同じ学生服と下駄姿で登場した。 「こんなに、馬鹿な人が多いとは……」 牧田のシャレの効いた挨拶で、会場をどっと沸かせた開会式を終え、飯島町のゆるキャラ・いいちゃん、地元の住民、コスプレ混じりの見送り組に声援を送られながら、自転車参加者は続々と出発していった。 どの道を通るのも自由なので、参加者は国道、旧道、さらにはアニメで描かれた火山峠を通過するルートを目指して別れ、合流しながら伊那市駅へと向かっていった。アニメに準じれば、伊那市駅前にある西園寺ツーリスト伊那支店のガラス戸をぶち破って突入しなければならない。