日本一のバルーンアーティストが焼き芋屋の店主に!コロナ禍の収入激減生活から一転、極甘蜜芋に懸けた「第二の人生」への想いとは
国内最高峰の舞台で<strong>、仲間と</strong>掴んだ栄冠
「JBANコンベンション」は、年に一度開催されるバルーン業界の祭典で、コンテストでは熟練のプロたちによる熱い戦いが繰り広げられる。中山さんが誘われたのは、10名でチームを組み、5メートル四方の巨大バルーン作品を制作する部門。だが、参加する他のチームメンバーを聞き、思わずたじろいだ。 「自分以外のメンバー全員が、バルーンを本業にしている人たちだったんです。対して僕は、バルーンを趣味で楽しんでいるレベル。『造園屋の僕なんかが、その船に乗っていいんでしょうか?』と確認したところ、チームリーダーから『ちちさんの技術は必ず戦力になるから、ぜひ乗ってください!』と言われて。自分にとってはまさかのメンバー編成で、出場させてもらいました」 2013年に初出場したコンテストの結果は、7チーム中、堂々の1位。世界大会での受賞歴を持つ、強豪チームを抑えての優勝だった。さらに、翌年、翌々年も同部門で優勝し、チームは3連覇を達成。 「子どもたちを喜ばせたい」と趣味でバルーンアートを始めて10年。47歳にして、予想もしていなかったステージでスポットライトを浴びていた。 「JBANコンベンション」への出場を機に、中山さんのもとにはバルーン演出を手伝う仕事が舞い込んでくるようになった。最初の仕事は移住のきっかけになったサザンオールスターズのコンサートの演出で、数十名のスタッフとともに、3時間で5万個ものバルーンを準備した。 「風船を膨らませていたら、リハーサルの音が聞こえてきてね。『あぁ、あの桑田さんが歌っている……!』とジーンとしていたら、実は息子さんだったらしくて(笑)」 並行して、誕生日や入学を祝うアニバーサリーバルーンや、ウェディングパーティーの会場装飾の依頼なども入ってくるようになった。 ここまで造園屋とバルーンアーティストの二足の草鞋で、ひた走ってきた中山さん。50歳を過ぎた頃、一つの願いが度々頭をよぎるようになっていた。それは「本当に好きなことを本業にしたい」という素直な想いだった。 「子どもたちも手が離れたし…造園の仕事、辞めてもいいかな?」 妻は半ば諦め気味だったものの「いいんじゃない」と承諾。かくして、2020年1月に長年勤めた造園会社を退職。52歳にして、第二の人生を華々しくスタートさせた…はずだった。